3−2.宦官王国の成立

 乾和十六(958)年に中宗が崩御すると、長子の劉eが即位しましたが、年齢が十七才と若かったことから政事の実権は、宦官の龔澄枢と女官の盧瓊仙に握られることになりました。中宗の初期において、士人が南漢政権で出世するためには、高位の宦官に伝手を求めて賄賂を贈ったりする必要があったのですが、その宦官偏重及び恐怖政治が二十年にわたって続いた結果、南漢では政権に登用される条件は、ついに「宦官であること」に変わったのです。すなわち、官僚としての才能を持つ士人や、進士を首席で通った者、仏教と道教を共に論ずることの出来るものなど、国家にとって必要な人材を、去勢して宦官としてから登用するほどの、宦官王国ができあがったのです。
 この結果、後主即位時における宦官の総数は七千余り、南漢滅亡時にはそれが更に増えて二万になんなんとするほどになっていきました。資料によれば、南漢滅亡時の嶺南の人口はおよそ百万とあり、この総人口に対する宦官の比率は、宦官の総数が最も多かった明代末と比較しても遜色のないものとなったのです。

 隆盛を誇る宦官勢力に反発するものがいなかったわけではありません。中宗からその才能を認められ、後主の傅(教育役)となったことから、後主の即位後は尚書右丞となった鍾允章という人物がいました。尚書右丞と云えば唐代では実務官僚の首座に相当する地位なのですが、実際には林延遇を初めとする宦官達が実務を取り仕切っていたために、単なる虚官となっていました。我慢のならない鍾允章は、法を乱す宦官たち数人を誅殺して綱紀を正すよう後主に訴えますが、後主は聞き入れようとしません。それどころか、これを知った許彦真、?澄枢ら宦官達に謀反の罪を着せられて族誅にあってしまうのでした。  中宗に厚い信頼を受け、後主の守り役となった鍾允章ですら、宦官勢力の前に敗れ去ったことは、宦官勢力が如何にこの国の中枢に深い根を張っているかということを、周囲に思い知らせるに充分なことだったようです。この後、鍾允章の排斥に参画した許彦真と龔澄枢の間で、権力争いが起こりますが、このことは、もはや士人側に宦官勢力に抵抗するだけの力が残っていないことの証拠でもあるでしょう。

 この後の南漢政権は、先に述べた権力争いを制して国政・軍政の両権力を手中に収めた龔澄枢や、外戚として権力を握った李托らによって握られ、正しく唐末の再現といっても良い状態となりましたが、その影では国外からの脅威が忍び寄っていたのです。

 後主が即位した二年後の大宝三(960)年、中原では趙匡胤が後周の恭帝から禅譲を受け、北宋を建国します。南唐の要地である長江以北を割領するなど、後周の末期から勢力を増していた中原は、趙匡胤の即位後も引き続き各地方政権の併呑を押し進め、南唐を属国化させたのに続き、大宝六(963)年には荊南(南平)を滅ぼしました。
 宋の脅威にいち早く気が付き、警鐘を鳴らした宦官に禹余宮使の邵延鐄という人物がいました。邵延鐄は後主に対し、軍備を整えて北宋の侵略に備えるのか、逆に北宋に財宝を送って修好を行うのかということを進言しましたが、安寧に慣れきった後主はこれを聞き入れないばかりか、返って排斥してしまったのです。

 邵延鐄の言葉が正しかったことを後主が悟ったのは、実際に北宋軍が国境を越えて侵略を開始したという急報に接した時でした。防禦の必要性を強く感じた後主は、武将として最高の実績を持つ呉懐恩を防戦の責任者に任じましたが、その準備中に呉懐恩が部下に殺されてしまったため、慌てて邵延鐄を登用して北宋軍に備えさせようとします。ところが、南漢の政権内部には未だに危機感のないものが数多くいたようで、急遽抜擢された邵延鐄は彼らに妬まれて、謀反の罪により誅殺されてしまうのです。  このような状態では、勢いに乗る北宋軍に対抗できるはずもありません。大宝十四(971)年、諸州を落として京師の興王府に迫る宋軍に対して、後主は為す術もなく降伏します。ここに五代六十三年続いた南漢は滅ぶことになりました。