先秦期の宦官について
ちなみに文中の青色の文字は宦官の名前や役職など関係する事柄を表しています。



 宦官の発生は古く、商(殷)の頃にはすでにその存在が認められています。但し、この頃の宦官は王宮内で使役される雑用奴隷にすぎませんでした。時代が下り春秋時代(前8世紀〜前369)になると、史料の中の各所に宦官に関する記事が見られるようになります。その頃の史料である《春秋》、《戦国策》、《史記》などによると、春秋五覇の一人である斉の桓公(前685〜前645)の頃に寺人(宦官)であるの事が載っています。その記事の中で、魯の僖公二年(前658)の欄に「始漏師多魚」という文字が出てきます。この「漏師」とは「師(戦)の密謀を漏洩すること」であり、当時、すでに宦官の貂が国家機密を知る事の出来る重要な立場にあったことを示していることになります。
 また、宮城谷昌光氏の小説「晏子」で有名になった(なってない?)斉の霊公(前581〜前554)の寵臣に夙沙衛という人物がいます。夙沙衛は斉の霊公が莢という国に侵攻しようとした時、莢から牛馬を賄賂として送られ、霊公に撤退を勧めました。夙沙衛は後に霊公の子供である子牙の少傅となりますが、子牙が後継争いに敗れたため、夙沙衛は領邑の高唐へ逃げて反乱を起こしました。これらの事例から、宦官が側近として信用され、領地まで与えられていることがわかります。

 なぜ、この頃に宦官たちが歴史の表舞台に現れるようになったのでしょうか?。その説明の為に少し時代背景から考えてみましょう。
 この 春秋時代と言われる時代の前には西周という王朝があり、建国当初は洛陽の辺りに首都を定めて中国全域(今の中国よりかなり小さな地域)を支配していましたが、だんだんと王朝の権威が低下して行き、各地に配置された諸侯の力が相対的に上がっていきました。時代が下るとこの傾向はさらに進み、春秋時代には諸侯に代わって大夫がその実権を握るようになり、さらには本来はむしろ被支配者階級であったが政治へ関与するようになってきます。
 さらに思想的にも、政治家は国の統治に対して責任を持つものであり、国君の一身上のことに対しては責任を負う必要がないという新しい考え方がおこります。

 斉の荘公が、崔杼の妻と私通し、それが露骨になってついには崔杼の家臣たちに殺されてしまう事件が起こりました。(知らない人は、宮城谷昌光氏の「晏嬰」を読んでみてくださいね)この時、荘公の多くの臣が討ち死にするのですが、これに対して晏嬰は
「君主は国を治めるのが役であり、臣はそれを助けるものだ。だから君主が国のために死んだときには、臣はともに死に、君主が国のために亡命することになれば、臣も亡命しよう。しかしたとえ君主でも、自分のことで死んだときには、臣として何の責任も負う必要がない(春秋左氏伝)」と発言しています。
 この発言は後人によりかなり潤色されているそうですが、このころの考え方としては良く表しているものと言えます。これに対して、このとき荘公とともに死んだ臣たちの多くは、荘公の私従でありました。国の制度として認められた以外に、多くの私的な臣が君主に仕えていた事がわかります。

 これら私的な臣の中に現れてきたのが、常に身の回りに侍っていて気が知れており、また自分の意見に絶対に逆らうことがない、親族よりも身近な存在に感じられる宦官たちです。宦官には家族というものがなく、子供の為、家の為ということを考えず、主人に対して無私に仕えてくれると考えたからでしょう。 「臣」という字がもともと男の奴隷を指す言葉であった事もそれを裏付けるものではないでしょうか。

 春秋時代の早い頃より宦官は軍を預かったり国の大事に参画しており、戦国時代の秦の景監の例にも見られるように、人才を推薦したり、外交活動に関わっていたりした為、君主達も宦官の意見を重視するようになりました。ここにおいて、宦官は国君の信頼すべき臣下としての地位を保つまでになっていったのです。