
| ◇ 竪チョウ(じゅちょう) |
生没年不詳。春秋時代斉の人。自宮して斉の内廷に入り、桓公(前685〜前645)に気に入られて側に侍るようになる。寵臣仲間の易牙、公子開方らと組んで権力を恣にしようとしたが、管鮑の交わりで知られる名宰相の管仲、鮑叔がいたために、なかなか目的を達せなかった。
管鮑の死後についに権力を握ぎり、桓公が死ぬと太子昭や他の公子らを追放して公子無詭を擁したが、隣国である宋の襄公が太子昭を擁して兵を起こし、これに破れた。この時に公子無詭と共に殺されたと思われる。『史記』斉太公世家
☆コメント
著名宦官としては、一番古い人ですね。出世の仕方、公子の擁立などいろんな意味で悪いイメージの宦官の祖なのかもしれません。
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| ◇ 趙高 (ちょうこう) |
?〜前206 趙の生まれ。秦の内廷に宦官として仕えていたが、法律に通じていることから取り立てられ、始皇帝の末子胡亥の家庭教師をする事で胡亥の信頼を受けるようになった。
前210年に始皇帝が崩ずると、遺言書を改竄して胡亥を帝位につけるように謀り、公子の扶蘇や蒙一族を殺して胡亥を帝位につけることに成功した。二世皇帝となった胡亥を完全に手なずける事に成功し、丞相の李斯を謀殺して朝廷を牛耳った。
二世皇帝が崩御すると扶蘇の子の子嬰を即位させたが、趙高の専制を憎んだ子嬰によって殺された。『史記』始皇帝本記 同李斯伝
☆コメント
「馬鹿」の起源となった故事で有名ですね。
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| ◇ 司馬遷(しばせん) |
前145〜? 字を子長といい、龍門の人。父の司馬談は太史令の職にあった。十歳の時に古文(春秋左氏伝や国語など)を諳んじ、二十歳の時に父の命をうけて南は江淮(揚子江と淮河方面)で各地の伝統や風俗を探訪し、戦国諸侯の記録を収集し、また斉・魯の地に講学した。
長安に戻った後に郎中となり、父の死後に太史令となった。天漢二年(前99)、李陵が匈奴に降った事件に対して、ただ一人李陵擁護を行ったために武帝の怒りに触れ、腐刑を受けた。後に許されて中書令となった。
その後、二十余年の歳月を費やして、遂に史記(当時は大史公書)の草稿を完成した。六〇歳前後で死んだ。 『史記』太史公自序巻130 『漢書』62
☆コメント
「史記」について、司馬遷の叙述が何年まで及ぶかに関しては諸説あるようです。司馬遷の生前は世に出ることはなく、その外孫の楊ツの祖述によって世に流布するようになります。
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| ◇ 弘恭(こうきょう) |
ハイ県の人。年少のころ法に触れて腐刑に処せられたが、のち中黄門となり、推選によって中尚書となった。宣帝のとき中尚書官に任ぜられ、法令、故事に詳しかったので、よくその職務を全うした。のちに中書令となるが、元帝の即位後数年(前45年頃?)で死んだ。『漢書』佞幸伝第63
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| ◇ 石顕 (せきけん) |
?〜前32(前33?) 字を君房といい済南の人である。年少の頃に法に触れて腐刑に処せられ、のちに中黄門となった。
西漢第十代の元帝のときに中書令となり、元帝が病にかかって政務を見られなくなると、その人柄を見込まれて政務全般を委任されるようになった。権力を握った石顕の専権ぶりは甚だしく、儒家官僚が多く指弾したが却って失脚させられた。
元帝が崩御すると外戚王氏の台頭により長信中太僕に左遷され、後に官を免ぜられて故郷に帰る途中で病死した。『漢書』佞幸伝第63
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| ◇ 鄭衆 (ていしゅう) |
?〜114 字は李産。東漢の第三代章帝の身辺の世話をするようになって取り立てられた。章帝の初期、外戚の竇(とう)氏一族が権力を握っており、章帝は自らの手に権力を取り戻す為に鄭衆を用いて竇憲を失脚させた。鄭衆はこの功により大長秋に任じられ、後には鄲郷侯に封ぜられ食邑千五百戸を与えられて諸侯の仲間入りをした。
宦官が皇帝の家奴から正式に一種の政治権力への変貌を遂げた第一歩となった。『後漢書』第68宦者列伝
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| ◇ 蔡倫 (さいりん) |
?〜121 湖南桂陽の人。東漢第二代の明帝の末年に宦官として宮廷に入り、第四代の和帝が即位するとそれまでの精勤ぶりが評価されて宦官としては最高位の中常侍に栄進した。
中常侍になった後も研究技術の研鑽に励み、その学問好きは宮廷外にも知られる程であったという。元興元年(105)には樹皮・革・布きれ・漁網などを原料とした新しい紙を開発した。その紙の厚さは0.04ミリと薄く、ニカワ質の成分はかなり良質なものであった。その功績もあって永初元年(114)には龍亭侯に封ぜられて三百戸を下賜され、後に長楽太僕に任じられた。
順風満帆に見えた人生だったが、熾烈な宮廷闘争に巻き込まれて永寧二年(121年)に自害した。『後漢書』第68宦者列伝
☆コメント
蔡倫の故郷には、蔡倫の製紙技術改良の功績を称えて蔡倫記念館があるそうです。
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| ◇ 曹騰 (そうとう) |
生没年不詳 字を李興といい、沛国?の人である。六代安帝から十代桓帝(数え方によっては十一代)まで仕え、特に桓帝が即位する時にその擁立に功があったとして費亭侯となり、大長秋に転じて特進侯を兼ねて宦官としては最高の地位を極めた。
曹騰は後宮で奉仕すること三十余年であったが、その間少しの過誤もなく、彼の推薦した人物はみな天下の名士といわれる程の人々であった。曹魏の太和年間に高帝と追尊される。『後漢書』第68宦者列伝
☆コメント
ある人(名前忘れた)が、後漢書のこの記載は曹一族に阿って書かれたものだという事を言っていたが、どうであろうか。確かに当時の史官が権力者に阿って筆を曲げると言うことはあり得るだろう。確かにここまで清廉な人物だったと額面通りは受け取れないにしろ、この頃の他の宦官や重臣たちと比べてある程度清廉な人物であったとは考えられるだろう。
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| ◇ 孫程 (そんてい) |
?〜132 字を卿といい、?(タク)県北新城(今の河北境内)の人。六代安帝の時に中黄門となり長楽宮に仕える事となった。
安帝後期は外戚の閻氏一族が専権をふるっており、安帝崩御の後も劉懿(少帝)を即位させて臨朝称制を狙ったが、125年、劉懿が崩じたのを期に、孫程が順帝を擁してクーデターを起こし、外戚派の宦官江京を殺して宮中を抑え、閻顯を初めとする外戚勢力の排除に成功した。この功により浮陽侯に封ぜられて一万戸の食邑を下賜された。
陽熹元年(132)洛陽において病死したが、順帝は荘厳な儀式を以て葬儀を行った。『後漢書』第68宦者列伝
☆コメント
後漢書の訳注に「『孫程が孫林父(春秋時代の衛の大夫)の末裔である』と書いているのは孫程の権威に阿ったからだ」と書いてある。孫林父から孫程まではおよそ6、700年も離れており、これは確かに無理な話で孫程が孫林父の末裔とは考えにくい。だが、ここまで書くほど権威が強かった事を表していることにもなる。
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| ◇ 五侯 (ごこう) |
五侯とは、東漢の桓帝の頃に権力を恣にした宦官達の名称であり、単超、徐[王黄]、具[王爰]、左[心官]、唐衡の五人を指す。単超は河南郡の人、徐[王黄]は下[丕β]国良城県の人、具[王爰]は魏郡元城の人、左[心官]は河南郡平陰県の人、唐衡は穎川郡の人である。桓帝の始めに単超らは中常侍となり、左[心官]、唐衡らは小黄門となった。彼ら五人は外戚である梁氏一族の排斥に功があり、単超が新豊侯、食邑二万戸に封ぜられたのを初めとして全員が侯となった。これ以降、政権は外戚から宦官の手に握られる事となる。『後漢書』第68宦者列伝
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| ◇ 侯覧 (こうらん) |
?〜172 山陽防東県(今の山東省金郷県南)の人。元々は市井の無頼の徒だったが、桓帝の即位した年には中常侍の高位に上っていた。王朝財政悪化の期を捉え、絹五千匹余を献上して桓帝の歓心を買って関内侯の爵位を受けるなど、機知に富んだ所があった。
この頃、外戚から宦官へ権力の中心が移っていったが、これに対して陳蕃、李膺など清流派と自らを呼んだ儒家官僚達が反発を見せるようになった。侯覧ら宦官側は徹底的な弾圧に乗り出し、桓帝党人逮捕令を出させる事に成功した。
侯覧の権勢はここに最高潮に達するが、桓帝が崩御して霊帝が即位すると、霊帝の取り巻き宦官集団との権力闘争に敗れて自殺した。『後漢書』第68宦者列伝
☆コメント
宦官集団内部に権力闘争が起こったのは、外戚の勢力を抑える事に成功し、宦官による専権がある程度安定化してきた証拠であろう。
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| ◇ 曹節 (そうせつ) |
?〜182 字を漢豊といい、南陽新野(今の河南省新野県)の人。先祖は魏郡の名門で代々二千石の高官であった。桓帝の頃には中常侍にまで昇進し、虎賁、羽林など近衛兵を掌握した。
桓帝崩御後の新帝選びには竇太后に協力して霊帝の即位に功があった。しかし、次第に竇太后の父親の竇武と衝突するようになった。京城内での市街戦の末に竇武を自殺に追い込むと、竇太后を軟禁し朝廷の実権を握った。その後も宦官勢力内部での地位を固め、死後には車騎将軍に任じられた。『後漢書』第68宦者列伝
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| ◇ 呂強 (りょきょう) |
生没年不詳 字を漢盛といい、河南郡成皐県の人。少年の頃に小黄門となり再び転任して中常侍となった。
生まれつき清忠名な人柄で私利私欲のない人であった。呂強は霊帝に対してたびたび諫言を行ったが、却って趙忠・夏ツらに中傷され、自殺した。『後漢書』第68宦者列伝
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| ◇ 張譲 (十常侍)(ちょうじょう) |
?〜189 潁川(今の河南禹州市)の人。桓帝の頃に小黄門となり、霊帝の時に中常侍となった。
この頃、趙忠、夏ツ、郭勝ら12人の中常侍が権勢を握っていたので、十常侍と呼ばれた。その中でも張譲と趙忠は特に霊帝より厚い信頼を受け、「張常侍(張譲)は朕(霊帝)の公(父)、趙常侍は朕の母である」と言わしめる程であった。
張譲らは宦官排斥の動きをみせた官僚たちを容赦なく排斥し、その権勢を揺るぎないものにしていったが、中平六年(189)に霊帝が崩御すると、新帝擁立において外戚の何氏と対立するようになった。張譲らは大将軍の何進を誅殺することに成功したが、何進側の呉匡、袁紹らがクーデターを起こして宮殿内に攻め入ったために京師から逃げ出すこととなり、小平津にて自害させられた。『後漢書』第68宦者列伝
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