宦官人物紹介(魏晋南北朝編)




 ◇ 黄皓(こうこう) 

 生没年不詳。三国時代の蜀漢に仕えた。諸葛亮の死後に後主(劉禅)に寵愛されて引き立てられるが、侍中の董允が在世中は黄門丞という低い官職のままであった。
 246年に董允が死ぬと、新たに侍中となった陳祗と組んで宮廷内で権力を固め、黄門令から中常侍、奉車都尉となった。黄皓は公主を完全に籠絡する事に成功し、大将軍の姜維すら誣告を怖れて首都の成都に戻ることはなかったという。そのため蜀漢政権は日に日に腐敗の度合いを深め、また連年に渡る戦争が国力を損耗させたために、263年に曹魏の武将ケ艾によって滅ぼされた。
 ケ艾は入蜀すると黄皓を逮捕して殺害しようとしたが、黄皓はケ艾の側近に手厚く賄賂を贈り、死を免れた。『三国志』39 蜀書 董允伝(付黄皓伝)
 ☆コメント
 蜀漢は、東漢の正当後継を自称していたために、政治制度が東漢に一番近く、宦官による弊害を免れなかったんですね。

 ◇ 宗愛(そうあい) 
 ?〜452 南北朝時代の北魏に仕えた。およそ太武帝の即位した年(424)に罪を得て宦官となったと思われる。太平真君年間(440〜450)頃には中常侍の職にまで登り詰め、451年には秦郡公となった。
 急激に権勢を増やした宗愛が、摂政であった太子の拓跋晃と対立するようになると、拓跋晃の腹心の2重臣を誣告し、それが原因で拓跋晃は憂死してしまった。後に太武帝が太子の死を悼むようになると、誅殺を怖れた宗愛は先手を打って太武帝を殺害した。
 太武帝の殺害後に重臣達の間で後継を巡って確執が生じると、その隙に乗じて宮中で政変を起こし、第六子の拓跋余を擁立した。拓跋余が皇帝となると、元輔(天子の補佐)の位に登って政治・軍事の両面を握り、その権力は比べる物のないものとなった。後に拓跋余が自らの手に権力を引き戻そうとすると拓跋余をも暗殺し、自らに都合のよい皇帝を擁立しようと謀るが、源賀や陸麗ら重臣たちに殺害された。『魏書』94 閹官 宗愛伝、『北史』92 恩幸 宗愛伝

 ☆コメント
 皇帝を殺害した宦官第一号です。太武帝殺害については異論があるので、そのうち載せようと思います。

 ◇ 仇洛斉(きゅうらくさい) 
 ?〜453 中山(今の河北省定県)の人。元の姓は侯。生まれつき性器がなかったと言われる。外甥の廬魯元が太武帝の信任を受けた為に仇洛斉も取り立てられるようになった。太武帝の北凉征伐に従軍して功績を挙げ黄門侍郎から散騎常侍、中書令、寧南将軍へと昇進した。その後、侍中、平遠将軍、冀州刺史となり大権を握るが、任所で重病に冒され死去した。死後に朝廷より「康」と贈諡された。『魏書』94 閹官 仇洛斉伝、『北史』92 恩幸 仇洛斉伝

 ☆コメント
 諡号を贈られるということは、その国にとって重要な人物であった事の証明です。この諡号は、逸周書・諡法解によると、「温年好樂」「安樂撫民」という意味で安定を意味する言葉です。

 ◇ 段覇(だんは) 
 生没年不詳。雁門(山西省)原平の人。父の乾は慕容垂の廣武令であった。道武帝が雁門を制圧した時、幼かったので宮刑に処せられた。乾は部族を率いて雲中に帰っていった。
 段覇は幼くして物事をみるに敏感で、それが認められて中常侍、中護軍将軍、殿中尚書を歴任し武陵公に封じられた。後に安東将軍、定州刺史として赴任することとなった。
 太武帝の頃、功績の有無を自ら調べた事があり、前の定州治左(刺史の補佐)である張渾屯が段覇が刺史時代に賄賂を貪ったと弾劾したため、太武帝の不興を買い、殺されそうになったが、景穆帝(拓跋晃)の取りなしにより、庶人に落とされるだけで済んだ。『魏書』94 閹官 段覇伝、『北史』92 恩幸 段覇伝

 ◇ 趙黙(ちょうもく) 
   ?〜482。本名は趙海といい、字は文静という。酒泉安弥(甘粛省酒泉県東)の人。祖先は河内温県の名族であったが趙黙の頃には一家は捕虜となり、趙黙は宦官として宮廷に仕えた。容姿が美しく性格が恭勤であったのでしだいに重用されるようになった。
 献文帝が後継者を選出する時、皇太子の元宏を退けて、京兆王の拓跋子推に皇位を継がせようと重臣らに謀った事があった。重臣等の意見が分かれて纏まらなかった時、献文帝に意見を求められた趙黙は皇太子支持を意見し、「臣黙は死を賭して皇太子を奉戴するのみであります」と答えた。これにより献文帝は皇太子(孝文帝)に皇位を継承することに決定した。この一件の後、孝文帝と馮太后の信任を得る事となった。
 この頃、選部尚書の李と対立するようになり、一度は李に陥れられて失脚するが、献文帝が急死して馮太后が実権を握ると再び登用された。趙黙は李の専横を告発し、ついに李は失脚することとなった。
 これ以降は職務に専念するようになり、河内王に晋爵し、鎮南大将軍、儀同三司、定州刺史に任じられた。清廉で賄賂を受け取らなかったので、孝文帝は多くの報償を与えた。太和6年(482)に在所で病死し、孝文帝は厚い礼を以て安葬させた。後に死空公を贈られ「康」と贈諡された。『魏書』94 閹官 趙黙伝、『北史』92 恩幸 趙黒伝

 ☆コメント
 北史には「趙黒(ちょうこく)」としていますが、ここでは魏書に従って「趙黙」としています。

 ◇ 孫小(そんしょう) 
 生没年不詳。字を茂翹といい、咸陽石安の人。父の[王贊]は後秦第三代皇帝の姚泓に仕え、安定護軍であった。夏の赫連屈丐に攻められたとき、周りの者が逃げまどう中、一人兵を率いてこれを防ごうとして殺された。孫小はこの時に捕らえられ、統万城(夏の首都)に送られて宮刑をうけた。北魏の太武帝が統万城を陥とした時に平城(北魏の首都)に遷されて東宮に勤めるようになった。聡明で知略があるといわれた。
 暫くして西台中散に転じ、各征戦に従軍し、数々の戦功を立てた。太武帝が劉宋を討つために瓜歩に出兵したとき、北寇の恐れありと進言し、左衛将軍を加えられ、泥陽子を賜爵された。太武帝が首都に戻った後、給事中、綰太僕曹を歴任した。父の[王贊]に対して贈謚を請い、改葬を願い出た。それに対して太武帝は振威将軍、秦州刺史、石安県子を贈り、戴と贈謚した。
 冠軍将軍、并州刺史刺史として宮廷を出、中都侯に晉爵した。州内四郡の百余人がその政ぶりを賞賛するために官舎に詣でたという。
 後に冀州刺史に遷った。『魏書』94 閹官 孫小伝、『北史』92 恩幸  孫小伝
 ☆コメント
 宦官としては、珍しく軍略があったようです。戦功で昇進する宦官がいた事は北魏の宦官たちのユニークな部分ですね。

 ◇ 張宗之(ちょうそうし) 
 428〜496 字を益宗といい河南県鞏県(現在の鞏県西南)の人。父の孟舒が東晉に協力したために北魏軍に追われて一家離散となり、張宗之は捕らえられて宦官とされた。成長すると性格が謹慎である事を買われて、侍御中散に任じられ鞏県侯を封爵された。後に右将軍、中常侍などを歴任し、彭城公に晉爵した。
 太武帝、文成帝、献文帝、孝文帝の四帝に仕え、孝文帝の初年には東雍州刺史として治績を挙げ、後に鎮東将軍、冀州刺史に任じられた。 496年に任地の冀州で卒した。死後に建節将軍、懐州刺史を追贈され、「敬」と贈諡された。『魏書』94 閹官 張宗之伝、『北史』92 恩幸 張宗之伝

 ◇ 劇鵬(げきほう) 
 生没年不詳。高陽(河南省)の人。経史をほぼ修得し、官吏の仕事について詳しかった。王質と共に宦官とされた。性格がさっぱりしていて偽りのない性格であり、宦官であることを恥じなかった。文明太后(馮太后)の時に取り立てられ給事中となる。孝文帝の洛陽遷都の時に、宮官(東宮の官)とし常に幽皇后に仕えることとなった。後に、幽皇后が薩菩薩と密通を行うと、密かにこれを諫止するが、幽皇后に聞き入れられず、憤慨の余り卒した。
 ☆コメント
 この人の兄に、劇買奴という人がいて、この人は幽州刺史にまでなるのですが、それでも「才志、鵬に遠く及ばず」と言われています。結構人望の厚い人だったんですかねぇ。

 ◇ 張祐(ちょうゆう) 
 437〜486。字を安福といい、安定石唐の人。父の成は扶風太守であったが太武帝の末期に死罪となり、連座して宮刑に処された。入宮した後、曹監、中給侍となり黎陽男に封じられた。後に散騎常侍となり内藏曹すべてを統括した。文明太后(馮太后)が臨朝を行うようになると、左右に仕えて寵愛をうけ、尚書に遷り、安南将軍を加えられ、隴東公に封じられ、ついには王叡らと共に八議に入った。
 文明太后は、その忠誠を称えて邸宅を建て、孝文帝や文武の大臣を伴ってその邸宅で宴会を行った。また、鎮南将軍、尚書左僕射を拝し、新平王に晉爵した。
 張祐は出世してからも、奢ることがなかったので、禁中に20年以上仕えて大過がなかった。このため家産は巨万のものとなった。
 王質ら17人とともに金券を賜った。太和10年(486年)に49歳で死んだ。孝文帝は自ら葬送に参加し、征南大将軍、司空公を追贈され、「恭」を贈謚された。『魏書』94 閹官 張祐伝、『北史』92 恩幸 張祐伝
 ☆コメント
 「恭」謚には、「目上の人や年上の人を敬う」「過ぎたるを知り、それを改める」という意味があります。

 ◇ 抱嶷(ほうぎょく) 
 生没年不詳。字を道徳といい、安定石唐の人。自ら漢霊帝の時の安定太守杞匡の裔という。幼いときに隴東の張乾王の叛乱に巻き込まれ、父の睹生は罪を怖れて逃亡し、母と共に都に連行され、そこで宮刑に処せられて宦官となった。常に気をつかい、上には恭しく仕え、閑職で19年仕えた。
 後にその忠勤ぶりを評価され、中常侍、安西将軍、中曹侍御、尚書を歴任し安定侯に封じられた。その正直な勤務ぶりが孝文帝、文明太后に気に入られ、殿中侍御、尚書領中曹となり宿衛を統べるようになり、さらに散騎常侍を加官された。
 孝文帝や文明太后が行幸するときには、かならず側に付き添い後宮に出入りした。その父の罪も許され、太中大夫を拝した。太和12年(488年)には都曹となり侍中、祭酒、尚書領中曹、侍御を加えられた。
 父が死ぬと、大長秋卿を加えられたが、老いと病を理由に宮廷から出ることを願い、鎮西将軍、州刺史に任じられ、特別に右光禄大夫を加えられた。州に赴任するときに、孝文帝は自ら西郊の樂陽殿で餞別の宴を開き、白羽扇を与えた。
 太和19年(495年)、洛陽に赴くよう命じられた。晩年は新法に馴染めず、不遇であった。数年後に死んだ。『魏書』94 閹官 抱嶷伝、『北史』92 恩幸 抱嶷伝

 ◇ 王遇(おうぐう) 
   生没年不詳。字を慶時といい、馮翊李潤鎮(陝西省蒲城東)の人。羌族出身であり、元々は鉗耳他悪、鉗耳慶時という姓名であったが後に王遇と改名した。太武帝の頃に入宮し、初めは中散という低い職についていたが、性格が細やかで恩義に報いることが厚く、人事に長けているところを馮太后(文明太后)に見いだされて以来、重用されるようになった。後に尚書、吏部尚書、華州(陜西省蒲城東)刺史となった。
 土木や建築工事が得意で、当時の首都であった平城の北にあった方山、霊泉池一帯に多くの官邸と仏寺を造営し、また馮太后の陵墓も造営した。また、馮熙(馮太后の兄)の葬儀を取り仕切るなど、馮太后の寵信を一身に集めていた。
 しかし馮太后が死亡すると幽皇后(孝文帝の皇后)に陥れられ、全ての官職と封爵を剥奪されて庶民へ落とされた。宣武帝の初年に将作大匠となり、光禄大夫に任じられ、爵位も宕昌侯に復爵した。景明年間(500〜503)に卒した。死後に使持節、鎮西将軍、雍州刺史を増官された。『魏書』94 閹官 王遇伝、『北史』92 恩幸 王遇伝

 ◇ 苻承祖(ふしょうそ) 
 生没年不詳。略陽(陜西省)のテイ族出身。文明太后(馮太后)の寵信を受けて御厩令から中部給事中、散騎常侍、輔国将軍に遷り、略陽侯を賜爵され、典選部事を兼任した。後に転じて吏部尚書、領中部となった。孝文帝は苻承祖の為に立派な邸宅を造り、幾たびも訪れる程の寵信ぶりであった。後に略陽公に進み、安南将軍を任じられ、侍中、知都曹事を加えられた。
 昔、文明太后に腹心として扱われた時に、死罪を免れる詔を許されていた。後に賄賂の為に罪に堕ちると、本来は死罪の所であったが、この詔により死罪を許され、全ての職を削り謹慎処分となった。しかし、悖義将軍(悖義とは義にもとるの意)、佞濁子という屈辱的な将軍号、爵位を受け、一月と経たないうちに死んだ。

 ◇ 王質(おうしつ) 
 生没年不詳。字を紹奴といい、高陽(河北省高陽県東)出身の易人。(占い師の意?、易という民族が居た?誰か教えてください。)その家が連座したために幼い頃に宮刑を受けた。よく書物や学問を解したので、中曹吏、内典監となった。後に秘書中散に遷り、寧朔将軍を加えられて永昌子に封爵された。また、侍御給事に遷り、選部、監御の二曹を司った。前将軍を加えられて魏昌侯に晉爵した。選部尚書に昇格し、員外散騎常侍を加えられた。
 鎮遠将軍、瀛州刺史として宮廷を出て、州に十年いた。その間に民を教化し、罪人の情状を究明し、刑罰を厳格に執行したため、庶民は皆敬服した。しかし、その刑罰は過酷でありすぎ、笞で打たれて死ぬ者が多く出た。後に大長秋卿となるが、まもなく卒した。

 ◇ 李堅(りけん) 
ただいま調査中
 ◇ 秦松(しんしょう) 
ただいま調査中
 ◇ 白整(はくせい) 
ただいま調査中
 ◇ 劉騰(りゅうとう) 
 464〜523 字を青龍といい[言焦](現在の安徽省亳県)の人。幼いときに連座して宮刑を受けて宦官とされた。幽后(馮氏)と陳留公主との密謀を孝文帝に告げた事により冗従僕射に取り立てられた。
 その後、孝文帝の為に民間より美女を捜し出し、その功により中給事に昇格し、さらに出世して大長秋卿、金紫光禄大夫、太府卿に昇進した。
 孝明帝が即位すると開国子に封じられ食邑三百戸を与えられた。
 霊太后が臨朝を始めると、さらに重用され長楽県開国公となり、食邑千五百戸となった。文字がほとんど書けず、署名が出来るだけであったが、姦謀には通じていた。後に清河王の元懌と対立し、元義と結ぶことによって元懌を葬ることに成功した。ついで霊太后を幽閉し、司空公となって、元義と内外に分かれて朝政を掌握した。
 正光4年3月、60歳で薨じた。死後に霊太后が復権すると、全ての爵位と財産は没収され、亡骸はバラバラにされて荒野に捨てられた。『魏書』94 閹官 劉騰伝、『北史』92 恩幸 劉騰伝

 ◇ 賈粲(かさん) 
ただいま調査中
 ◇ 楊範(ようはん) 
ただいま調査中
 ◇ 成軌(せいき) 
ただいま調査中
 ◇ 王温(おうおん) 
ただいま調査中
 ◇ 孟鸞(もうらん) 
ただいま調査中
 ◇ 平李(へいり) 
ただいま調査中
 ◇ 封津(ふうしん) 
ただいま調査中
 ◇ 劉思逸(りゅうしいつ) 
ただいま調査中