◇ 楊復光(ようふくこう) 
 842〜883。閩(福建省)の人。本姓は喬。幼い頃、内常侍の楊玄价の家で養われていた。宦官となって内侍省に入ったときに養子となり姓を改めた。頗る義理堅く感激しやすい性格で謀略の才があったので、小黄門の時に鎮兵の監軍となって征伐に出た。
 
 乾符四年(877)王仙芝黄巣の乱が起き、王仙芝の反乱軍が江西を犯すと排陣使に任じられた。楊復光は王仙芝を説得し、王仙芝は部将の尚君長を投降の使者として送ったが、招討使の宋威がその功を独り占めしようとしてこれを殺したため、王仙芝は怒って再び背いて宋威の軍を破った。そこで楊復光にその兵権を与えて、賊将の徐唐莒を下し、荊南節度使の王鐸を招討使として宋威に代えた。また楊復光を忠武の監軍とし、ケ州に駐屯させ反乱軍への抑えとした。
 
 廣明元年(880)、長安が黄巣軍によって陥落すると忠武節度使の周岌は黄巣軍に降伏しようとし、夜宴を開いて急に楊復光を召しだした。その知らせを聞いた左右の者は、「周公(岌)は既に賊に降伏しています。必ずや内侍(楊復光)を害する謀をたてているに違いありません。行ってはなりません」と諫めたが、楊復光は「事態がどのように変わろうとも、義を求めなければならない」と答えて出かけていった。宴酣となり周岌が降伏の事に触れると、楊復光は泣き崩れた後しばらくして言った。「丈夫という者は恩義を感じる事のできる者をいいます。利害をはかる事は丈夫とは言えません。貴方の身は公侯の高きにあるのに、何故天子を棄て賊に北面して臣従しようとなさるのですか。恩義と利害を比べる事が出来ましょうか。」これを聞くと周岌は涙を流して答えた。「吾は独力で賊に刃向かう事が出来ない。そこで表面上は服従して、心は唐朝に寄せようと思ったのだ。故に君を招いたのだ。」この夜、楊復光は養子の守亮を遣って賊使を殺した。
 
 秦宗権が周岌に叛いて蔡州に拠ると、楊復光は忠武の兵三千を以て蔡州に入り秦宗権を説得した。秦宗権はその申し出を受けて帰順し、部将の王淑に1万の兵を率いさせて楊復光に従わせ、荊・襄州を収めた。次いでケ州に移動したが王淑がそれ以上進もうとしないのでこれを斬ってその軍を併せ、八都に分けて鹿晏弘、晉暉、李師泰、王建、韓建らをその将とした。その上で南陽に進軍したが、賊将の朱温、何勤らの逆襲にあって大敗し、ケ州に撤退した。この時、母の喪に服す為に軍を返した。暫くして復帰すると、天下兵馬都監に抜擢され、諸軍を統べる立場となり、東南招討使の王重栄と関中を平定した。
 
 中和二年(882)九月、河中に進出し、同州を守っていた賊将の朱温を説得して帰順させる事に成功した。しかし、まだ黄巣軍の盛んなのを見た王重栄から今後の方針を相談され、李克用を用いることを進言した。この策は王重栄の採るところとなり、李克用率いる沙陀騎兵を用いて長安を回復した。
 
 中和三年(883)六月、河中で卒した。享年四二才。楊復光は大志を持ち良く士卒を撫したので、楊復光が死んだ日、軍中は皆慟哭した。仮子の中で、守亮は興元節度使、守宗は忠武節度使、守信は商州防御使、守忠は洋州節度使となるなど、その他の諸子も高い地位に登った。『新唐書』207 宦者上、『旧唐書』184

☆コメント
 熱血忠義宦官ともいうべきこの人物ですが、両唐書、資治通鑑で記載の矛盾が多いです。王仙芝・黄巣の乱での混乱ぶりが伺えるのですが、列伝を書く上では結構困りもの。今後、この時代を調べていくと書き直さなければならない部分が出てくるかも知れませんね。