◇ 張承業(ちょうしょうぎょう) 
 
 845〜922。字は継元。元の姓は康。唐の僖宗の時の宦官である。幼くして宦官となり内常侍張泰の養子となった。
 李克用が兵を挙げ王行瑜を討ったとき、朝廷からの使者に任じられて李克用の元を訪れたところ、李克用にその人となりを認められ、親交を結ぶようになった。
 昭宗が李茂貞に圧迫され、重臣共々太原に向けて長安を出奔しようとしたとき、再び使者として先遣されて河東監軍となり、その地に留まることとなった。その後、京師長安で崔胤が宦官を誅殺すると、地方に対しても宦官誅殺の詔が出されたが、李克用は張承業を哀れみ斛律寺に匿って難を逃れさせた。昭宗が崩御すると監軍に復職した。
 
 李克用の病が重くなると、李克用は張承業に託して「亜子(李存勗)を公等に頼む」と云った。李存勗は張承業に対して兄のように遇し、対朱温戦の為に前線の魏州に十年以上にわたって指揮を執っていた間、国事は全て張承業に委ねられ、張承業も心からこれに応えた。
 
晉−梁相対図(908年)  李存勗が大原府に戻っていたあるとき、宴席で楽人に褒賞を与えようとしたが手持ちの金がなく、張承業に支払いを求めたが、張承業はそれを断った。また、酒庫の中での宴席で李存勗は酒に酔い、子の李継岌に張承業の為に舞を舞わせたことがあった。
 張承業がお礼として宝帯と馬を贈ろうとすると、李存勗は国庫用の銭倉を指し、「和哥(継岌を指す)は金がなく、銭の一積ぐらいをやっても良かろう。どうして帯と馬だけなのか」と暗に国庫からの出費を求めて云った。
 張承業は謝りつつ応えた。
 
「国家の金銭は臣の所有するものではありません」

 
 これを聞いた李存勗が皮肉ると、承業は怒っていった。

「臣は老宦官であり、子孫の為に計ろうとはいたしませぬ。この中の金銭を惜しむのは覇業達成の為なのです。御入り用ならどうして臣に問うことがありましょうや。もし財を尽く使い果たせば兵は散り散りとなり、どうして臣一人が禍を受けることになるでしょうか(国は滅んですべての人が禍を受けるでしょう)。」

 
 李存勗はこれを聞いて激怒し、「剣を取ってこい」と怒鳴った。張承業は李存勗の衣服を掴み泣きながら云った。
 
「臣は先王に顧託の命を受け、国家の讐(朱温)を雪ぐと誓いました。今日、王が藏中の物を惜しんだ為に殺されても、死して先王に見えても恥じるところはありません」

 
 寵臣の閻宝が張承業を下がらせようとすると、張承業は拳を振るって閻宝を殴りつけて云った。
 
「お前は朱温の手先であろう。晉の厚恩を蒙りながら、一言も忠国の言葉もなく却って阿諛追従の言葉だけを使う邪な者め。」
 
 太后は之を聞くと急ぎ李存勗に使者を遣わせた。李存勗は孝心が厚く、太后が呼んでいる事を知ると大いに怖れ、張承業に謝りながら云った。「吾は酒の上での罪を犯し、太后はこれを責めるであろう。どうかこの盃の酒を呑んで我が過ちを許しては貰えないだろうか」。張承業は許さず酒を呑まなかった。李存勗が太后の元に連れて行かれると、太后は張承業の元に人を遣わし「小児(李存勗を指す)が公に過ちを犯したので、すでに鞭打った」と伝えさせた。翌日、太后は李存勗を連れて張承業の屋敷を訪れ謝罪し、労った。
 
 盧質は酒を好んだがその上での暴言が多く、ある時李存勗や諸公子を侮辱したことがあり、李存勗に深く恨まれていた。張承業は機を見て上申した。
 
 「盧質は酒を嗜みすぎて礼がありませんが、どうかこれを殺しませんように」
 
 李存勗は答えて「吾は賢才を招いて功業を為さしめてきた。公の言葉は余計な心配であろう」と云った。張承業はこれを聞いて喜んで云った。
 
 「王がこの様に能があれば、天下を平定するのになんの不足があろうか」
 
 これにより盧質は護られたのである。

 天佑十八年、李存勗は自分が皇帝に即位することを諸将に伝えた。張承業はこの時、病で臥せっていたのだがこれを聞くと輿に乗って太原から魏州に至り、諫めていった。
 
 「大王父子が梁(朱温)と三十年に亘って血戦を行ってきたのは、国家の讐を注ぎ、唐の社稷を復す為でした。元凶が未だ滅んでいないのに尊名を名乗るのは、王父子の初心ではなく、天下の望を失うことになるでしょう。即位してはなりません」
 
 李存勗は謝りつつ云った「諸将が欲するのでしょうがないのだ」
 張承業はこれを聞いて云った。
 
 「そうではありません。梁は唐、晉の仇賊であり、天下が共に憎むところです。今、王は天下の為に大悪を去らせ、列聖の深き讐に報い、しかる後に唐の遺族を求めてこれを即位させるべきなのです。唐に遺族がなければ、天下の士は誰が王と争うでしょう。臣は唐朝の一老奴に過ぎず、大王の成功を見ることのみが願いであり、その後は田舎に引退し、百官が洛陽の東門で見送る中、道ばたの人々は指さして嘆き『この宦官は先王の時の監軍である』と云うでしょう。どうして臣主共に栄えようとしないのでしょう」
 
 しかし、李存勗は聞きいれなかった。
 張承業は諫することが出来ないことを知ると、天を仰いで痛哭し
 
 「我が王が自らこれを取られるとは!。老奴を誤らせた」
 
 と云い、肩輿で太原に戻ったが、食することが出来なくなり卒した。享年七十七才だった。同光元年、左武衛上将軍を贈られ、諡号を「正憲」とされた。『旧五代史』72 唐書48、『新五代史』38 宦者伝第26

☆コメント
 とりあえず『新五代史』の意訳を載せています。『旧五代史』の方が詳しいのでもう少し加筆する事になるかと思いますが…量が多いですよね。
 『資治通鑑』の編集責任者の司馬光は、宦官にはかなり批判的なのですが、この張承業は絶賛しています。国を滅ぼした元凶として糾弾されることが多いですが、この用に国が滅びつつある中でも忠誠を誓う宦官は結構いるんですよね。