
西漢と東漢の皇帝の中で、「孝」諡を除外すると(注4)、共通する諡号を持つ皇帝は西漢の武帝(世宗孝武帝)と東漢の光武帝(世祖光武帝)だけです。劉秀の死後に贈諡する際、「武」という諡号は評価としては妥当であると考えられますが、この武諡を付けてしまうと、西漢武帝と区別が付かなくなってしまいます。その為、「先君の業を光らす」という意味を取って「光」を付加したのではないかと考えられるのではないでしょうか。
つまり光諡は孝諡と同じく前置諡(造語)であったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
余談ではありますが、章懐太子が「光」を他の諡号と同じように考えたのは「占いのことばに、『大横庚々と横たわり、余天王たらん、夏の啓をもって(先君の業)を光(て)らす』とあった《漢書・文帝紀》」から来たのではないでしょうか。
原文だと「<略>至夏?始傳嗣,能光先君之業。文帝亦襲父跡,言似?也<略>」になりますが、この「能光先君之業」は「能紹前業曰光」に良く似てます。章懐太子はこの一文からこの前置諡である「光」に意味づけをしたのではないでしょうか。
(注1)史記・漢書を見る限りでは光諡は見当たりません。もしあったら教えてください。
2002/3/4記載
(注2)章懐太子 李賢。唐高宗の子。上元の初め、太子となったが、武后によって廃されて庶人とさせられた。范曄の後漢書に注をした。
(注3)諡法研究による。実際には見てません。
(注4)「孝を以て本とす」の儒教的な考え方から、西漢の文帝以降の皇帝には「孝」諡が必ず付加されています。この孝諡がつかないのは東漢では光武帝のみです。
(注5)「諡法研究」によると、唐の上元元年(674)に懿祖日光皇帝と追諡しているが、この年は章懐太子が太子に立てられた年であり、太子に立てられた章懐太子が初めに行った事が後漢書に注を付ける事であった事を考えると、この追諡が章懐太子の発案によるものである可能性が高いと思える。
また、余談ではあるが、章懐太子の三人の子は光順・守礼(初名は光仁)・守義である事から考えると、結構な光マニアだったのかもしれない(笑)
備考) 新唐書の高宗の部分に
「上元元年(674)8月
皇帝を天皇と、皇后を天后と称す。六代前の祖の宣簡公を宣皇帝と追尊し、妣の張氏を宣荘皇后とした。五代前の祖の懿王を光皇帝とし、妣の賈氏を光懿皇后とした<後略>」
とあります。

