

1.謚号とは
謚号も死後の称号ですが、廟号とは異なり、子孫が死者の生前の徳行と事跡を基に、一種の論評を含ませて付ける称号の事を指します。
この制度は、西周の初期に発生したとする説があり、この説は先秦の古籍である「逸周書」という書物の「謚法解」が根拠となっています。この謚法解には「周公旦、太公望が王業を開嗣した時に、謚を定め謚法を叙した」と出ています。これを秦漢以降の王朝も踏襲したと考えた訳ですね。
しかし、この説は清末の学者である王国維によって否定されています。王国維の説によると、周の成王(2代)、穆王(5代)は金文から推測するに、生前より「成王」「穆王」と呼ばれており、この事から立謚制度が始まるのは早くとも恭王(6代)以降であると論じています。つまり、謚号制度は周王朝の中期から始まったとする訳ですが、この説は当時の多くの学者に受け入れられました。また、郭沫若は、その著書「謚号之起源」の中で、さらに時代が下って戦国時代であると主張しています。
この謚号制度は、周王朝や諸侯らによって普遍的に行われていましたが、秦の始皇帝による統一後、「子が父の行いを議し、臣が君の行いを論ずるのは道義に外れた事である」として廃止されました。しかし、秦を滅ぼした西漢王朝は謚号制度を復活させ、それ以降清朝滅亡まで綿々と受け継がれていく事となります。
2.立謚の対象とその方法
立謚の対象となったのは、西周や春秋戦国では、周王、各国の諸侯、卿大夫と彼らの王后、夫人でした。漢代になると、皇帝、皇后以外では生前に列侯に封じられた者で、死後に朝廷が賜謚すべきだと認めた者に限られていました。唐代になると、三品以上の職事官で、死後に謚号を付けられる資格があると認められた者と規定され、この規則は清代まで続きました。
3.謚号の種類
謚号を大きく分類すると、「美謚」「平謚」「悪謚」の3つに分類されます。一般的に美謚に属するのは「文・武・昭・景・明・桓・貞・恵」など、平謚に属するのは「懐・悼・哀・閔・殤」など、悪謚に属するのは「暴・昏・煬・氏vなどです。
死者に謚を立てる事は、死者の生前の事跡と謚法解とを照らし合わせ、「対号入座(意味合い通りに立謚する)」の原則に従って最適な謚号を選ぶ事になっていますが、実際にはその通りに選ばれてはいません。試しに想像してみてください。跡継ぎの新君が先君に対して悪謚を付けられるものでしょうか?。実際に皇帝の謚号はほとんど全てが美謚であり、悪謚を付けられるのは隋の煬帝の様に亡国の君に異姓の皇帝が付ける時ぐらいのものです。また、北宋の頃には悪謚を付けることを止めてしまった為に、悪謚が付けられている皇帝は数える程しかありません。
4.謚号の文字数
謚号の文字数は、周〜春秋戦国期においては、周文王、周武王、斉桓公、晉文公、秦穆公などの様に基本的には1文字でした。ただ、中には周の威烈王、趙の孝成王、恵文王、貞恵文子、楚の孝烈王などの様に2文字、3文字の場合もあります。
このため、唐代以前は謚号で呼ばれる皇帝が多かったのですが、唐代以降は余りに長すぎる謚号が呼称としては不便なものになってきたので、廟号や年号をもって称される事が多くなりました。唐代以前より、謚号本来の意義は薄れてはいましたが、唐の則天武以降は単なる文字の装飾品に堕したといっても過言ではありません。
皇帝の謚号は、跡継ぎの皇帝の参加のもと、礼官によって議定され、朝廷で最も位の高い大臣が円丘で祭天儀式を行った上で賜謚します。
顕臣や高官などの場合は、朝廷より賜ります。彼らの死後、その子孫或いは部下らが死者の一生の行跡を整理して賜謚を願いでます。皇帝が同意すると、礼官が謚号の草案を作成し、皇帝がそれを批准します。朝廷は専門家を喪礼に参加させ、朝廷の誄策(祭文・悼詞)を宣読し、その上で、謚号を公布します。
これらの文字にはそれぞれ意味があります。孟子は「君がその民を害する事が甚だしいとその身は弑され、國の滅亡となる。この様な君主の名を死後、幽・獅ニいい、孝子慈孫といえども百世改めてはならない(孟子・離婁篇)」と言っていますが、この言葉から、幽・獅ェ暴君、虐主に対する称号であることが判ります。
また、幼くして即位し、不幸にも夭折した君主に対しては、殤・哀・悼などの謚号が付けられ、死者に対する同情と哀憐を示します。
西漢の恵帝以降になると、孝文帝、孝景帝、孝武帝などのように「孝」の字が加えられる事となります。(略して「漢の武帝」などといいますが、正式には「孝武帝」となります。)これは、漢王朝が治国立家の為に「以孝為本(孝を以て本と為す)」を提唱したためでした。
これ以降、隋代に至るまでの謚号は、2文字が基本となっていきます。
しかし、唐代に入るとこれらの原則は脆くも破られる事となります。唐朝の武則天の時に、「上尊号」という制度が現れました。この制度は既に崩じ謚号を贈られている皇帝に対して、尊号(謚号)を追加できる制度でした。後代の皇帝が自分の権力を誇示するために次々と上尊号を行ったため、謚号は時代が下るにつれて次第に長くなっていきました。例えば、唐の初代皇帝の高祖(李淵)が崩じたとき、謚号は「大武」だけでしたが、3代皇帝の高宗(李治)の時に「神尭」と改め、第6代の玄宗の時に「大聖大光孝」と加えたために、最終的には「神尭大聖大光孝皇帝」となりました。唐の宣宗は18文字、北宋の神宗は20文字、清の太祖に至っては最長の25文字となってしまいます。

