楊復恭は隋煬帝の子孫?


 大順二(891)年八月、昭宗の策略に引っかかって失脚した楊復恭は、在野に降って長安の屋敷に引きこもり、復帰の機会を狙っていました。ところが、謀叛の罪をでっち上げた昭宗が、楊復恭を誅殺しようとその屋敷を攻撃したため、楊復恭は長安から逃げ出すことになります。
 長安から落ち延びた楊復恭らは、仮子の楊守亮を頼って興元府(陜西省漢中市)に逃げ込みますが、当時の藩鎮はほとんどが朝廷の命令を聞かなくなっており、興元府の楊守亮、楊復恭らに対して、朝廷は自力ではどうすることも出来なくなっていました。
 これを見た李茂貞ら京畿の藩鎮は、楊復恭一族の領土を占領して自分の勢力を拡大させる絶好の機会だと考え、景福元(892)年正月に朝廷に対して楊守亮討伐を申し出ます。楊復恭は守亮を含む仮子を総動員してこれに抵抗しますが、同年八月に興元府は陥落してします。この時、興元府を占領した李茂貞が押収した手紙の中に、楊復恭から楊守亮に宛てたものがあり、その中にこんな言葉が書かれていました。

「自分が苦境の中から寿王(昭宗)を擁立したのに、ようやく尊位を得ると定策国老を廃そうとする。この様な心に背く門生天子があろうか?」

 これは自分が擁立した昭宗の裏切りを皮肉ったもので、唐代宦官史上では有名な話(と私は思っていますが)ですが、実はこの前にもう少し言葉があるので、それを列記してみます。

「承天門者,隋家舊業也,兒但積粟訓兵,何進奉為?」  (『新唐書』楊復恭伝)
「承天是隋家舊業,大姪但積粟訓兵,不要進奉。」  (『旧唐書』楊復恭伝)
「承天門乃隋家舊業,大侄但積粟訓兵,勿貢献。」  (『資治通鑑』巻259 乾寧元年八月条)

 若干、表記の違いはありますが、どれもほぼ同じ内容といっていいと思います。
 そこでまず、「承天門者,隋家舊業也」について考えてみましょう。
1)「承天門」は長安城の皇宮である太極宮の南面中央の門の事で、隋開皇二(582)年に隋の大興城(後の長安城)を造ったときに建立された宮門を指します。
2)「承天」は「天命を奉承すること」を指します。
3)「隋家舊業」とは、「隋王朝が過去に行った事業、又は古くから積み立てた財産」を指します。
 これから判断すると、

「承天(天命を奉承すること)は、隋家(王朝)が過去に行った事業である。」

と訳した方がよいと思われます。『新唐書』『資治通鑑』の「承天門〜」は直訳すれば、「承天門は隋家(王朝)が昔に造ったもの(旧業)である。」となりますが、これは『旧唐書』の表記を比喩的に表現したものでしょう。

 続いて、「兒但積粟訓兵,何進奉為?」について考えると、
1)「兒」は児。「大姪」「大侄」は兄弟の子を指し、楊復光(楊復恭の兄弟)の子である楊守亮を指す言葉となります。
2)「積粟訓兵」は「兵糧を貯え、兵士を訓練する」という意味になります。
3)「進奉」「貢献」は朝廷に対して決められた量の租税などを上納すること。
 これから判断すると

「お前(楊守亮)は、ただ兵糧を貯えて兵士を訓練するだけで、上納する必要などない」

と訳した方がよいと思われます。
 これだけでは少し意味が執りづらいので補足すると、「諸仮子皆為節度使,刺史,<中略>,仮子龍剣節度使(楊)守貞、武定節度使(楊)守忠,不輸貢賦,上表訕薄朝廷。」 (『資治通鑑』巻258 大順二年七月条)とあり、楊復恭の仮子の守貞、守忠が節度使に任じられたものの、貢納を行わなかったので、朝廷を軽んじるものだと非難されたことが書かれています。この記事には直接に楊守亮の名前は出ていないものの、楊守亮が貢納を行わなかったということは十二分に考えられます。
 おそらく、朝廷に貢納を怠ったことを非難された楊守亮に対して、「貢納など行う必要はない」と楊復恭が指示したものであると考えた方が自然でしょう。

 ということで、繋げてみると

「承天(天命を奉承すること)は、隋家(王朝)が過去に行った事業であり、お前(楊守亮)は、ただ兵糧を貯えて兵士を訓練するだけで、貢納などする必要がない。」

 となります。もう少し砕けた言い方に直すと「我が家は隋王朝の末裔の楊一族なんだから、唐王朝に遠慮して貢納なんてする必要はないんだ」とでもいうところでしょうか。

 これだけであれば、「なんだ、楊復恭ってとんでもない大逆ものぢゃんっ」ということで、話が終わってしまいそうなのですが、これにはもう一つ裏がありそうなのです。
 先にこの手紙は、李茂貞が楊守亮らを討伐した後に押収した手紙の中にあったということを書きましたが、その前に李茂貞が楊守亮討伐を訴え出た時の話に

「茂貞劾復恭自謂隋諸孫,以恭帝禅唐,故名復恭,逆状明白<以下略>」  (『新唐書』楊復恭伝)
意訳:(楊復恭が隋の諸孫だと自称し、唐に禅譲した恭帝の復活を望んで名前を復恭としたのであり、その叛逆の意図は明白であったと李茂貞は楊復恭を弾劾した)

 というものがあります。
 宦官という存在がどんなに勢力を誇ろうとも、皇帝権力に寄生する存在である以上、皇帝の廃立を考えることはあっても、易姓革命を行おうとすることは考えられません。もし現皇帝と険悪な関係になったとしても、その皇帝を排除して新皇帝を立ててやればよく、それを行うだけの実力も充分に持っていました。
 また、自らが皇帝の座についても、朝臣、藩鎮などからの支持を得ることが出来ないのは判りきったことであり、一族の養子に唐王朝転覆を願った名前を付けることなど、あり得ない話なのです。
 そもそも養子が養子を取ることで一族を形成する宦官の場合、煬帝の末裔などといっても、誰が信じるというのでしょうか。現に楊復恭の元の姓は「林」なのです。
 つまり、李茂貞のこの弾劾は、単なる「いいがかり」であると判断出来るのです。さて、このことを前提に先ほどの話をもう一度読み返すと、「承天は、隋家の旧業であり」という部分が気になります。楊復恭が隋王朝の末裔であると自称したことが偽造であり、これらの手紙が李茂貞が発見したものであることから考えると、この部分も李茂貞の偽造によるものと考えた方が自然ではないでしょうか?

 この興元府攻めの前に、李茂貞は朝廷に対して山南西道招討使という錦の御旗を求めたのですが、李茂貞の勢力増大を防ぎたい朝廷はそれを渋ってなかなか招討使に任じようとしませんでした。
 そのため、李茂貞はこの興元府攻めが私欲によるものではなく、唐王朝の為に造反者を処罰したということを朝廷に対してアピールする必要があったのです。そこで、楊復恭が唐王朝の転覆を狙う大逆人であるという証拠を捏造したのではないでしょうか。

 ということで状況証拠ばかりですが、この部分についてはかなり信憑性が薄いと考えています。それ以降の部分も全て李茂貞による偽造ではないかと勘ぐりたくなるのですが、この部分の真偽については否定出来るだけの材料がありません。でもね、皇帝とそれを擁立した宦官とを、門生と座主に例えるなんて、ちょっと名言過ぎるかなぁ〜って感じですよね。う〜ん。