2006年8月12日訪問。サンクトペテルブルク旅行の第1日目のほとんどをシリッセリブルクにあてたことになる。
ペテルブルクはネヴァ川河口の街として知られているが、このネヴァ川はペテルブルクの東およそ70キロの地点でラドガ湖から流れ出している。そして、ネヴァの起点に浮かぶ小さな島の上に築かれた要塞がシリッセリブルクであった。
戦略上の要衝であるこの島を最初に要塞として取り立てたのはノヴゴロド人たちで、バルト海に至るネヴァ水路をスウェーデンの手から守ることがその目的であった。当初、この島はオレーシェクあるいはオレホフなどと呼ばれている。初めてオレーシェクに防御施設が築かれたのは1323年、それ以来ノヴゴロドとスウェーデンの間で奪い奪われの戦いが続く中、徐々に要塞としての機能を充実させていく。1352年、要塞は複数の塔を備えた石の城に作り替えられるが、この形式の城塞が作られたのはルーシでは初めてだという。また16世紀末のリヴォニア戦争でもロシアに敵対したスウェーデン軍から猛攻を受けるものの、守備隊は要塞の死守に成功している。
しかしスムータ末期の1612年、スウェーデンはオレーシェク攻略に成功し、これにノーテブルクという新しい名を与えた。ロシア軍が本格的な要塞の奪回に取りかかるのはピョートル1世の時代のことで、スウェーデンを打倒して海への出口を手に入れんとするピョートルはノーテブルク攻撃を実施、長い包囲の末1702年に勝利を収めている。そしてピョートルは、ノーテブルク要塞にドイツ語(のロシア語読み)で「鍵の街」を意味する「シリッセリブルク」という新たな名を与えたのである。それほどまでに要塞の奪取を高く評価していたのだろう。
その後、スウェーデンの脅威が薄れるに連れてシリッセリブルクは軍事的な意義を失い、代わりに政治犯を収容する監獄として使われ始める。廃位されたイヴァン6世が幽閉され、殺害されたのもこの監獄でのことで、他にはデカブリストや革命家たちがシリッセリブルク要塞に送られた。また、特に重大な国事犯はここで処刑されており、その中にはレーニンの兄アレクサンドル・ウリヤノフが含まれている。
そして第2次世界大戦が始まり、レニングラードがドイツ軍に包囲されると、シリッセリブルクはレニングラード解放を目指すソ連軍にとって重要な拠点の1つとなる。ドイツ軍はこの小さな要塞に対して猛烈な砲爆撃を加えたが、しかし守備隊を屈服させることはできなかった。つまりシリッセリブルクは、数百年の時を経た後、再度ロシアにとって重要な軍事的役割りを果たしたのである。

ペテルブルクのフィンランド駅からおよそ1時間、やって来たのはペトロクレポスチ駅。ここがシリッセリブルクの最寄り駅である。写真は駅頭にあった記念碑で、1941年から44年まで続いたレニングラード包囲を耐え抜いた人々に捧げられたもの。

同じくペトロクレポスチ駅に展示されていた機関車で、1943年に包囲中のレニングラードへ物資を運び込んだ歴史的な車両だという。

駅から少し歩いてネヴァ川に出ると、そこからはもうシリッセリブルク要塞を一望することができる。現在残る石の要塞は、大体16世紀にその輪郭が形づくられた。

この日は天気に恵まれて本当にラッキーだった。朝釣りを楽しむ人の向こうにはラドガ湖が広がっている。

こちらはネヴァ川の方を眺めたところ。
(06.09.02更新)