ロシア歴史紀行アルバム66-1

カリーニングラード


 2006年9月7日から10日まで訪問。
 ロシア連邦の中でも最西端、バルト海とリトアニア・ポーランドに囲まれた飛び地。1946年まではケーニヒスベルクと呼ばれたドイツの街であり、東プロイセン(現カリーニングラード州)の中心都市として発展した。
 琥珀を豊富に産出することでローマ時代から知られたこの地方は、元来はバルト系の一民族であったプロイセン人(いわゆる古プロイセン人)の居住地であったが、中世に入ってからドイツ騎士団の入植を受け、徐々にドイツ化が進んでいく。ケーニヒスベルクはその過程、1255年に築かれた騎士団の砦であり、当時騎士団を指揮していたチェコ王オタカール2世にちなんで「王の山」すなわちケーニヒスベルクと名付けられている。街はバルト海に注ぐプレーゲル川(現プレゴリャ川)の河口部に位置し、バルトを通じた交易により繁栄した。
 その後、古プロイセン人は入植者たちに同化・吸収されて消滅し、騎士団の後継国家であるプロイセン公国/王国がドイツ統一を成し遂げた(1871年)ため、ケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンは「ドイツの源流」として認識されるようになる。哲学者イマヌエル・カントなど、この街に縁を持つ偉人・著名人も少なくない。
 しかし、第2次世界大戦によってドイツ都市・ケーニヒスベルクは唐突にその存在を止めることになった。すでに連合国側はヤルタ会談の席上で東プロイセンをソ連に引き渡すことを取り決めており、ポツダム会談の後でこの決定は実行に移された。そして1946年、街はソ連の政治家ミハイル・カリーニンにちなんでカリーニングラードと改名されている。ケーニヒスベルクを含む東プロイセンに居住していたドイツ人は、戦争最末期の疎開と戦後の追放措置によりほとんど全てがこの地を離れ、ドイツ的伝統は完全に払拭されるに至った。
 さらに時代が過ぎ、1991年にソヴィエト連邦が崩壊すると、カリーニングラード州はヨーロッパに向き合うロシアの西の飛び地として新たな道を歩むことになる。ソ連崩壊前後の混乱による後遺症も大きい反面、ユニークかつ豊かな潜在力を持つ地方であり、今後どのような発展を遂げるかが注目されるところだ。
 ここではまず、初日・9月7日に撮影した写真をご紹介したい。


モスクワのシェレメーチェヴォ1空港。国内便が多く発着する空港で、我々もここからカリーニングラードへと飛んだ。


こちらはカリーニングラード空港。小さい。カリーニングラードの北東部に位置するフラブロヴォという街に近く、カリーニングラードまでの交通の便が悪いのが難点だ。


空港からカリーニングラードまではこのバスで40分ほど。バスの車体にも書いてあるが、「キョーニクアフト」という会社名が面白い。これは「キョーニクスベルク」すなわち「ケーニヒスベルク」のロシア語的な発音に由来しており、すでにドイツ時代の名前も大っぴらに使われているわけだ。


カリーニングラードまでの移動中、バスの車窓から撮影したモニュメント。おそらく、第2次大戦末期の東プロイセン攻略戦で倒れたソ連軍兵士に捧げられたものと思われる。


遂に到着した。写真は鉄道のカリーニングラード南駅で、バスセンターにも隣接しており、街の玄関口とも呼べる存在。駅舎は1929年すなわちドイツ時代に作られたものである。

(06.09.25更新)


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