クレムリン(モスクワ・クレムリ)

  縁あってロシアに住むことになり、今まで研究の対象でしかなかったこの国に親しく触れる機会を得た。有名な観光地などについては『地球の歩き方』などで充分だろうが、ここでは思い切って歴史に偏ったロシア紀行を書いてみることにしたい。少しでもおつき合いいただければ幸いである。

 さて、今のところまだモスクワから一歩も外に出てはおらず、まずはこの街から始めなければなるまい。と言っても、モスクワだけで数え切れぬほどの史跡があるのだが。
 で、モスクワで第一に語るべきものと言えば、これはクレムリンをおいて他にあるまい。モスクワ大公国、ロシア帝国、ソヴィエト連邦、そして現ロシア連邦に至るまで、クレムリンは常に権力の頂点であり続けた。まさにロシア史の表舞台と呼ぶにふさわしい。そもそも都市モスクワの歴史もクレムリンと同時に始まっているのであり、様々な意味で見逃すことのできない史跡と言えるだろう。
 なお、以前にも述べたことがあるように、正しいロシア語は「クレムリ」であって「クレムリン」ではない。日本では、おそらく英語経由で「クレムリン」という呼び方が定着してしまったのだろう。従ってここでも「クレムリ」とすべきかもしれないが、すでに日本語になってしまっている感もあるので、モスクワのあのクレムリを(固有名詞として)特別に「クレムリン」と表記したい。ちなみにロシア語でも、特に大文字で「クレムリ」Кремльと書く場合、モスクワ・クレムリやソ連/ロシア政府を意味するのだそうである。

 クレムリンのはじまり、というかモスクワのはじまりについてもかつて書いたことがあるが、簡単におさらいしてみたい。「モスクワ」という地名が初めて史料に登場するのは1147年、ユーリー・ドルゴルーキー公の所領としてである。現在ではこれがモスクワ創建の年とされ、またユーリー公はモスクワの建設者として名を残すことになった。しかしモスクワに城壁が築かれたという記事は1156年が初出で、クレムリンの誕生はこの年と見た方がよいかもしれない。当時、ユーリー公の本拠地はより北方にあるロストフもしくはスーズダリの街で、生まれたばかりのモスクワはユーリー領の国境線を守る国境哨所の一つでしかなかったと考えられる。
 クレムリンはいびつな五角形、大まかに見れば三角形をしているが、これには充分な理由がある。というのも、本来モスクワ・クレムリが築かれたのはモスクワ川ネグリンナヤ川の合流点、つまり二つの川に守られた要害の地だったからである。「川の合流点に築かれた三角形の城塞」には、日本で何度もお目にかかった(長篠城深沢城など)。城塞を構築する上では世界共通の形かもしれない。


 ただし、今日のクレムリンから「天然の要塞」を想像するのは少し難しいと思われる。特に、我々日本人にとっては。要害の地とは言ってもあくまでロシアでの話で、日本で想像されるごとき急峻な地形とはまったく異なっているからである。緩やかに流れるモスクワ川に面した河川段丘、言ってしまえばこの程度のものだが、山の少ないロシアでは要塞適地に数えられるわけだ。
 また、我々はふつう赤の広場側からクレムリンを目にすることが多い。マスコミで紹介される映像が多くこの視点によっているからだが、これもやはり、クレムリンが平地のただ中にあるがごとき誤解を与える一因であろう。実のところ、赤の広場側はほぼ三角形のクレムリンの中で唯一川に接していない辺であり、防御上の観点から見ると「弱点」とも言える部分である。かつては赤の広場側の城壁も堀で守られていたようだが、現在では埋め立てられてしまっている。
 ただし、実際に赤の広場へ行き、有名なヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂(これもよく映像で紹介される、カラフルなネギ坊主型の丸根屋が印象的な教会。赤の広場の端にある)の傍らに立つと、聖堂の後ろが意外なほど大きな坂となってモスクワ川に落ち込んでいるのが見える。現在は登りやすくなだらかになっているが、坂に沿った城壁や塔は半分地面に埋もっており、この辺りの地形に手を加えたことは明らかである。おそらくかつては川の水面から落差のある急斜面となっていて、敵を寄せつけなかったのだろう。また、クレムリンからこの坂道を隔てたところにあるロシア・ホテル(あきれるほど巨大な建築物)は、かつては湿地帯であったのだという。
 赤の広場側を三角形の右辺とすると、左辺はネグリンナヤ川という自然地形によって守られていた。しかしこれも昔の話である。現在この川は埋め立てられてしまい、と言うより正確には表面を覆われてしまい、地下を流れてモスクワ川に注ぎ込んでいる。クレムリン城壁に沿って細長く伸びるアレクサンドロフスキー公園が、かつてのネグリンナヤ川の名残である。よく見るとこの公園、周囲よりも一段低くなっており、川の面影をかろうじてとどめている。

 もしもクレムリン本来の地形効果を見たければ、クレムリンの南側を歩くことをおすすめする。これはクレムリンを三角形と見た場合の底辺に該当し、モスクワ川に沿った部分である。この川は埋め立てられずに残っており、ネグリンナヤ川なき今、クレムリンに残された唯一の防御地形と言える。
 岸辺の通り(かなり大きな道である)を歩きながらクレムリンを見上げると、レンガ造りの巨大な城壁がそびえ立っているのはもちろんだが、その背後が小高い丘になっているのが分かるだろう。クレムリンの本体とも言える宮殿や教会は、その丘の上に建てられている。要するにこれは川に面した丘陵地で、その落差と川の流れは城の守りに有用であった。現在は立派な城壁があるため却って分かりにくくなっているが、もともとは地形をうまく利用した城塞だったのである。
 しかし、この部分の城壁が山の上ではなく下にあるのはちょっと面白い。丘陵地が直接モスクワ川に面してはおらず、川岸が広かったためであろうか。元来モスクワ川の流れは緩やかで、日本の河川のように岸を削り取って断崖としてしまうことはなかったのだろう。

 上でも少し触れたように、クレムリンの城壁は非常に大きく、また数多くの尖塔をそびえさせていかにも威圧的に見える。しかしこの「威圧的」という感覚には、大国ロシア/ソヴィエトの中心であることから来る先入観が含まれているかもしれない。モスクワを歩いてみれば、同じように石造りの巨大な建物が多く見受けられ、クレムリンだけが特別、というわけではないからだ。
 壁の上部はすべて凹凸状をなしている。我々が「ヨーロッパの城」と言われてすぐに思い浮かべるような形で、言うまでもなくここから外部に向かって弓や鉄砲を射かけるための工夫である。よく見ると、凸状の部分には縦長の切れ込みが入っていた。ご丁寧なことに、こちらにも銃眼を作ったものらしい。
 ところで、城壁が最初から現在のようなレンガ造りだったわけではない。ユーリー・ドルゴルーキーが初めてこの地にクレムリを築いたとき、それは(ルーシの多くの街と同じく)木造であったし、大きさも現在とは比べものにならないほど小さかった。その後、要塞の規模は徐々に大きくなり、まずはモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイ(在位1359〜89年)の治世に白石造りへと改修される。当時の様子を描いた(想像だろうが)歴史画を見ると、現在のクレムリンとはかなり印象が違って見える。その後、イヴァン3世(在位1462〜1505年)時代には再度の改修を受け、レンガ造りとなった。
 ただし赤レンガ製となった後も、現在のクレムリンとはかなり外観が異なっていたようだ。歴史博物館で見た古い地図によると、城壁の外側に角張った堡塁がいくつも飛び出している。これは砲台として活用されていたのであろう。やはりクレムリンは、長きに渡ってその本来の機能──「城塞」としての役割を果たし続けてきたのである。

(01.05.16)

※その後、モスクワ考古博物館を訪れ、かつてのクレムリンに関しても多少の知識を得ることができた。この非常に興味深い博物館についてはいつかレポートするであろうが、差し当たって上の文章に関係のありそうな情報を少しだけ追加しておきたい。

・ネグリンナヤ川がパイプに閉じ込められ、完全に地上から姿を消したのは1819年のことであった。1812年のナポレオン侵攻に伴う大火でモスクワが焦土と化した後、新たな都市計画が進められたのだが、ネグリンナヤ川の「埋め立て」もその一環であったらしい。古くからクレムリンを守る天然の堀であったネグリンナヤも、19世紀ともなると単に都市の発展の阻害要因としか見なされなくなったのだろうか。
・17世紀のクレムリンを再現したディオラマで確かめると、やはり赤の広場側の外壁には水堀が掘られていた。しかも、かなりの深さを持つ上にレンガで固められた立派なものである。地形によって守られず、防御上の弱点とも言える部分であったからには当然の措置であろう。この堀も現在では完全に埋め立てられており、レーニン廟などがその跡地に作られている。
・同じディオラマでは、現在とは違って赤レンガの外壁に屋根がかぶせてあった。戦時に城壁の上で戦う守備兵たちが、敵軍の飛び道具によって傷つかないようにするための工夫と考えられる。日本の城郭でいうと多聞櫓のようなものである。ただし現在この屋根がまったく見られないのは、改築されて取り払われたのか、あるいは木などで作られた一時的なものであったためか、よく分からない。

(01.05.21追加)


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