コロメンスコエ
モスクワの地図帳を開いてみると、ほぼ円形の街の中を、北西から南東に向かって大きく蛇行を繰り返しながらモスクワ川が流れていることに気がつくだろう。多くのロシア都市の例に漏れず、モスクワもまた川の畔で生まれ・育った街であり、河川のもたらす様々な恩恵(水路を使った交易、外敵からの防御など)を最大限に利用しながら発展してきた。
ここで紹介するコロメンスコエは、街の中心から南東の方角約13キロ、モスクワ川に面した土地の名前である。川はこの場所で逆S字型にくねっているのだが、その一角がコロメンスコエと呼ばれている。史料中に初めて現れるのはイヴァン1世カリター(モスクワ公、在位1325〜41年)の時代というから、比較的早くから歴史の舞台に登場してきたことになる。
コロメンスコエの地は、モスクワが南方ステップ地帯の敵と戦うに際して重要な役割を果たしてきた場所であった。例えば1380年、有名なクリコヴォの戦いに先立って大公ドミトリー・ドンスコイはコロメンスコエに軍勢を集結させたと言われている(異説あり)。そして1528年、33年、91年には、クリミア汗国との戦争におもむく将兵がここを通って出撃している。逆に南方からモスクワへの攻撃が行われた場合、コロメンスコエは防御陣地として使用されたと考えられるだろう。またはるか後の1812年、ナポレオンによるモスクワ遠征の際にコロメンスコエはミュラ元帥の部隊によって占拠されたという。この当時にも多少の軍事的意義は残っていたものか。
もちろん、コロメンスコエの価値は戦時の重要性にとどまらない。歴代のモスクワ支配者は風光明媚なこの土地を愛し、離宮を営むのが伝統となっていた。特にロマノフ朝第二代ツァーリ・アレクセイが建てさせた宮殿は、同時代の人々に奇蹟と称えられるほどの偉容を誇っていたらしい。またニコン年代記によると、イヴァン雷帝はコロメンスコエで誕生日を祝う習慣があり、ピョートル大帝がここで誕生したとの伝説も存在する。真偽のほどはさておき、大公やツァーリの私生活と密接な関わりを持つ土地であったようだ。
ただ、コロメンスコエ滞在には政治的な理由もあったのかもしれない。ロシアの支配者には、近臣と共に首都を外れて郊外に起居する例がいくつか見られる(スーズダリではなくキデクシャに住んだユーリー・ドルゴルーキー公、またウラジーミルを出てボゴリューボヴォに居を構えたアンドレイ・ボゴリュープスキー公など)。大貴族や教会など、対抗勢力の強い首都を離れて君主権力を確立しようとする意図を、そこに見出すこともできよう。ちなみにコロメンスコエは単なる別荘地にとどまらず、例えば外国使節の受け入れなどを行う政治的空間でもあった。
やがて帝国の首都がモスクワからペテルブルクに移ると、コロメンスコエの重要性は比較的低いものとなった。そして革命後、ソヴィエト政府は多くの歴史的建築物が残るこの土地を特別史跡保護区に指定した。現在もなおコロメンスコエは貴重な文化遺産によって、またかつてのツァーリを楽しませた美しい風景によって、多くの人々を惹きつけている。
コロメンスコエを初めて訪問したのは1993年3月のこと。美しい雪景色の中に点在する教会、そしてモスクワ川沿いの急斜面でスキーやそり遊びに興じる人々の姿が印象的であった。歴史的背景に関する知識はなかったものの、その魅力を十分に味わうことができたのである。
それから8年後の6月3日。銀世界から陽光あふれる夏の郊外風景へと装いを変えたコロメンスコエは、まったく変わらぬ美しさを保っていた。モスクワ市民にこよなき憩いの場として愛されている点も以前に同じくである。地下鉄コロメンスカヤ駅からモスクワ川までの沿道には、様々な土産物屋やカフェテラス・ビアガーデンなどが立ち並び、道行く人々の足をとめようとしていた。
ここに来たら、まずは川を見下ろせる場所に出てみよう。意外なほど急な斜面の下方に、幅の広いモスクワ川が蛇行しながらゆったりと流れている。コロメンスコエは小高い河岸段丘上に位置していることがよく分かる。また川の対岸は盛り上がっておらず、一面の平野が続いているために見晴らしは非常によい。モスクワの中心から見て南東方面ににらみを利かせる哨所としては、格好の位置であろう。ただ、現在では所々に郊外型の集合住宅や工場が立ち、一面遮るものなき大平原とはいかないのだが。
日本的な景観と違っているのは、コロメンスコエの丘がそのまま断崖となって川に落ち込むのではなく、その下に幅の広い河原が続いている点である。モスクワ川の流れはあくまで穏やかであり、川縁の段丘を削り取るほどの勢いを持っていない。また丘陵の中腹も河原も砂地がベースで、柔らかな草に覆われ、石というものがほとんど見当たらなかった。そのためもあって、丘は高さのわりにあまり険しいという印象を与えてはいなかった。日本型の断崖絶壁に慣れていないロシア人の目には、また違った映像として写るのであろうか。
8年前にコロメンスコエを訪れたときには、雪に覆われた斜面の中腹に2門の旧式な大砲が並べておかれていた。近くにいた老婦人に由来を尋ねたところ、「タタールとの戦いを記念して」展示されている、と言われたことを思い出す。美しいこの丘もやはり、起伏に乏しいロシアでは格好の要害であったと考えられる。今回は見に行かなかったが、今でも同じ場所でモスクワ川を見下ろしているのかもしれない。
そのモスクワ川には遊覧船用の船着き場があり、大きな船が2隻ほどつながれていた(モスクワ市民は遊覧船による川下りが大好きなのだ)。この美しい風景の中をのんびりクルージングというのはさぞ気持ちのいいことだろう。その昔、モスクワ大公やツァーリの一族も同じ場所で船遊びに興じたはずである。
さて、コロメンスコエの丘にあって遠くからでも目立っているのは、独特のスタイルを誇るヴォズネセーニエ教会である。ユネスコ世界遺産へ登録された(1994年)ので、日本でも比較的名の知れた教会であろう。1532年に造られたものだが、大公ヴァシーリー3世が息子イヴァン(後の雷帝)の誕生を祝って建てさせた、という伝説があるようだ。また教会のそばの説明書きには、1917年の革命によって皇帝ニコライ2世が退位したちょうどその日、聖母のイコンが「奇蹟によって発見された」と記されていた。これはどういうことなのかよく分からない。
ロシアの教会というと、玉ネギ型ともネギ坊主型とも形容されるあの特徴的な丸屋根を思い浮かべる方が多いかもしれない。ところがヴォズネセーニエ教会の屋根は多面体の尖塔で、まるでロケットのような形をしている(ロシア語では「テント型」と表現されることが多いようだ)。ふつうの教会では鐘楼として使われることの多い建築だが、ここではこれが教会の本体なのである。天に向かって「そびえ立つ」という表現がふさわしい白亜の尖塔には、とりわけ遠望したときに大きな印象を受けるだろう。
ヴォズネセーニエは、こうしたテント型教会の中で最古の石造建築であるという。してみると、それ以前にも木造では同じ形のものがあったということか。例の丸屋根がビザンツ教会建築に起源を持っているのに対し、テント型尖塔はロシアで独自に発展したスタイルかもしれない。もっとも建築史に関しては門外漢である以上、単なる推測の域を出ないのだが。
先に遠望が素晴らしいと書いたが、もちろん近くから見てもヴォズネセーニエ教会の建築は魅力的である。殊に、テント型尖塔の下部にある破風飾り(ロシア語でココシニクと呼ばれる)は印象的である。釣り鐘型の破風が三つずつ、まるで鱗の如く、また花弁の如く重なり合って教会の屋根を飾っている。何とも言えぬ不思議な視覚効果を与えるスタイルだ。
この教会は、直接地上部分に入り口を持たず、階段を上って2階に該当する部分から中に入る点に特徴がある。1階はどうなっているのか、よく分からない。と言うのも、テント型の本体を取り巻く回廊に隠されてしまっているからだ。ふつうのロシア教会では、礼拝用ホールの周囲をめぐる回廊は建物の中に取り込まれているのに、ヴォズネセーニエでは列柱式の回廊がむき出しとなって教会を一周している。これもまた独自のスタイルと言えるだろう。
回廊からの景色はなかなかのものだが、特に入り口から見て正反対の部分では、眼下にモスクワ川を見下ろす素晴らしい眺望が楽しめる。宗教的にこの回廊が何らかの機能を持っているとは考えにくく、ひょっとして純粋に展望用のテラスなのでは?と思ってしまうほどだ。実際に多くの人がここで足を止め、陽光に輝くモスクワ川に見入っていた。
しかし教会はやはり教会である。6月3日(旧露暦で5月21日)は復活祭から50日目、聖三位一体の日として祝われており、慣行に従って教会の階段や入り口にはたくさんの木の枝が、緑の葉をつけたままに敷き詰められていた。教会の中をのぞくと、一人の僧侶が説教をしており、周囲では信徒がそれを聴いている。白い内壁はイコンと、これは少し違和感のある電飾で飾られていた。また入り口付近にも多くの善男善女が集まり、中には地に跪いて祈りを捧げる人の姿が見られた。
このような敬虔さ・信仰心は、我々日本人には縁遠いものと思われるかもしれない。日本人が非宗教的な民族である、というイメージは根強いものである。しかし小生は田舎での生活を経験しているため、とりわけ年老いた人々が神社仏閣を敬い、あるいは仏壇に向かい心を込めて手をあわせる姿を知っている。「祈り」の表現は異なっているが、この世ならざる存在に対して敬い、あるいは畏れの感情を持って接するという心性は、ある程度まで普遍的なものではないのだろうか。ただし自分の目で見た限り、こうして教会を訪れて祈りを捧げるのは老人が圧倒的に多いようだ。古い宗教的感情が失われつつあるという点でも、日本と共通しているのだろうか。
ところで、白亜のヴォズネセーニエ教会は実は白石造りではなく、レンガの上に白い漆喰(?)が塗られたものである。至近距離からだと、レンガの「地肌」が透けてよく分かる。すっきりした尖塔スタイルのこの教会を、白一色にまとめ上げたのはなかなかのセンスと言えるかもしれない。これが極彩色に塗られていたなら、視覚効果はまったく違うものになっていたはずである。ロシアの教会建築が「美」に関して示す配慮には、並々ならぬものがあると言えよう。
(01.08.18)
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