コロメンスコエ2
さて、ヴォズネセーニエ教会の真向かいには白塗りの美しい門が立っている。大小二つのアーチ型通路が口を開き、上部は多角形の端正な尖塔で飾られ、その先端には帝国ロシアの象徴・双頭の鷲が金色に輝いている。尖塔部分はまた鐘楼ともなっているようだ。
かつて、この門の背後にある広大な敷地には、ロマノフ朝第2代ツァーリであるアレクセイ・ミハイロヴィチの宮殿が建てられていた。豪壮華麗で知られたその宮殿も今はなく、わずかにこの正門(1673年建造)の他、いくつかの付属建築物が伝わるのみである。
門の両脇には背の低い建物が続いている。日本で言えば長屋門のようなものだろうか。あまり目立たないので見逃しがちだが、ヴォズネセーニエ教会から見て右手の方はなかなか面白い歴史博物館の入り口となっているので、是非入ってみよう。入場料もそれほどのものではない。
まず入り口から左手のホールでは、在りし日のアレクセイ宮殿を復元した大きな模型が中央に展示されている。これは一見の価値がある。いまだピョートル大帝による欧化が始まらぬ当時のこととて、宮殿建築にも西ヨーロッパの影響はほとんど見られず、純ロシア的と言ってよいスタイルであった。鱗状に葺かれた曲線的な屋根やロシア独特の尖塔などが複雑に配置された姿は、まるでおとぎ話に出てくる城のようで、美しいとも奇怪ともつかない不思議な印象を与えてくれる。当時の人々はこの宮殿を「世界八番目の不思議」と呼んだのだそうだ。しかし17世紀のロシアに「世界七不思議」という概念は浸透していたのだろうか。
甚だ残念なことに、この宮殿は女帝エカテリーナ2世の時代に取り壊されている。当時の首都はペテルブルクに移っていたから、モスクワ郊外の離宮も不要になってしまったのだろう。それにこの宮殿は木でできていたから、エカテリーナ時代には朽ちてぼろっちくなっていたことも考えられる。それにしても忘れがたいフォルムといい木造であった点といい、ヨーロッパ化を目前にしたロシア伝統建築の集大成とも言える建物ではないか。是非とも新潟ロシア村あたりで再現してもらいたいものである。
また同じホールには、同時代人によるアレクセイ宮殿の絵や発掘品などが模型の周囲に展示されている。絵画は複数の視点から描かれており、模型として再現する際には参考にされたことだろう。しかしこの宮殿は角度によってまったく違う姿を見せ、ヨーロッパ的な均整のとれたスタイルとはまた違った魅力を持っている。
取りあえず左手はこのコーナーで行き止まりなので、今度は右に向かう。まず最初のホールでは、コロメンスコエと関係のあった歴代支配者が語られる。イヴァン・カリターから始まってドミトリー・ドンスコイ、イヴァン雷帝、ボリス・ゴドゥノフ、ピョートル大帝などなど「有名人」が勢揃いで、モスクワの大公・ツァーリはほぼ全てコロメンスコエに関連するエピソードを持っていたかのようだ。しかし部屋中に展示された支配者の肖像画を見ると、ビザンツ風の豪奢な衣装がピョートル大帝を境に突如としてヨーロッパ化するのが面白い。同時に、衣服も含めた西欧的ライフスタイルは、ロシアの伝統を体現したようなこの宮殿に似合わなかったのでは?という感想も抱かれた。
ここから先にもいくつかの小さなホールが連なり、コロメンスコエに関する様々な展示が行われている。例えばある部屋には古くさい机が置かれ、同じく時代がかった筆記用具などがその上に並べられていた。どうやらここはコロメンスコエ郷の役場であったらしく、当時の模様をそのままに再現しているわけだ(もちろん役所として使われるようになったのは、ツァーリの宮殿が取り壊されて後のことであろう)。コロメンスコエ自体は長らく帝室の御料地であり続け、そのために役人が派遣されていたのである。
また巨大な鐘や大砲を陳列してある鋳造品コーナー、教会内の天蓋飾り(聖骸などを覆っていたものか?)を見せてくれる部屋など、博物館の構成はなかなか多彩である。しかも外から見ると一階建ての建物にしか見えないのに、何故か上り階段があって階上にも展示がある。これは門の上の望楼(?)部分がそのまま博物館の一部として使われているのであった。二階部分は仕掛け時計に関するコーナーとなっていて、古い時計のからくりの様子がいくつも紹介されていた。ちなみにロシアで記録されている最古の時計は1404年、モスクワ・クレムリンのものであるらしい。これはドミトリー・ドンスコイの息子ヴァシーリー1世時代のことで、意外に古いという印象を受けた。
門の上部を通って反対側の階段を下りると、そこもまた展示ホールとして使われていた。とりわけ様々な武具を扱ったコーナーの中に、西欧のモーニング・スター(鎖の先に鉄球をつけ、振り回して使用する武器)と同じ形のものがあったのが目を惹いた。鎧で身を固めた戦士たちに対しては、この手の打撃用兵器の方が剣などより有効だったのかもしれない。
出口は入り口と反対側、門の左手側にあたる。こちらにはちょっとした土産物売り場があるが、いわゆる「土産物」ばかりで見るべきものは少ない。ただしコロメンスコエを紹介したリーフレットは押さえておいてもいいと思う。
本来であればこの門をくぐり、アレクセイ帝宮殿跡を散策するのが順序にかなっているのかもしれない。しかしこのときは左手を指して少し歩くことにした。左前方に、背の高い教会のドーム屋根が遠望されたからである。これもロシア教会によくある玉ねぎ型とは多少雰囲気の異なる建築様式で、不思議な印象を漂わせていた。
しかしいくらも歩かないうちに、大きな谷間が我々の行く手をさえぎった。谷底には細い小川が走り、左手のモスクワ川に注ぎ込んでいる。流れをせき止めてできたのであろう、小さな池も見えた。渓谷は宮殿から見て南側に当たり、天然の空堀として機能していることは明らかである。東側を流れるモスクワ川を巨大な水堀に見立てると、さすがにツァーリの離宮は風光明媚なだけでなく、要害地形を選んで建てられていることが理解できた。
ただし、これまで何度も書いているように日本とロシアの地理的条件はまったく趣を異にしている。「天険」たるこの渓谷も岩がちな険しいものではなく、草に覆われた斜面の中腹には多くのモスクワ市民が日光浴を楽しんでいる。また日当たりのよい谷底では子供たちが無邪気に遊び回っている。今なお人を寄せつけぬストイックな日本の山城と比べ、思い切って呑気と言える光景ではあった。
件の教会は、対岸丘陵を覆い隠した林の上に頭をのぞかせている。そこまで行くには、まず谷底に下りて小川を渡り、もう一度斜面を登らなくてはならない。教会側の丘は意外に傾斜がきつくて大変だが、手すりつきの階段という気の利いたものが設けられているのでそれを使えばよい。
丘の上に着いてみると、そこは先ほどの明るい谷間とは対照的とも言える、薄暗く閑静な林となっていた。教会の前面、背の高い木々の足下にはたくさんの十字架が立ち上がっている。また草むらの中には墓石(ロシアの伝統的な墓石は長方形で、石棺を小さくしたような形態である)が横たわっているのも見られた。これが教会に付属した墓地であることは間違いない。
墓石は古めかしいものが多く、一面に草が生い茂っていることもあって、最初は放棄された墓の跡かとも思った。しかしよく見ると花で飾られた十字架があるし、また墓石の周りを掃除する人もいる。どうやら現役(?)の墓地であることは間違いないようだ。我々の感覚では何となく荒れているように見えるのだが、しかしこのように静かで、自然と一体となった墓というのも悪くはないかもしれない。
さて、肝心の教会である。名前はちょっと変わっていて、洗礼者ヨアン斬首教会(Церковь усекновения главы Иоанна Предтечи)という。洗礼者ヨハネ(ヨアン)の斬首といえば「サロメ」で有名だが、ロシアにはこの出来事に捧げられた教会があるわけだ。いわれてみると、さっきのヴォズネセーニエ教会にあったイコン売り場で、髭を生やした男性の首が皿の上に載せられているという奇妙な図柄のイコン(お守り用の小さなものだった)を見かけたような気がする。一応はこの教会に由来のものであったらしい。しかし、いくらイコンといえども生首とは…と、信者であればこのように卑俗な感想は抱かないのかもしれないが。
遠方から我々を惹きつけた教会の外観は、まことに印象的なものであった。円蓋を先頭に頂く背の高い塔が天に向かってそびえ立ち、その周囲には4つの小さな円蓋が寄り添っている。外壁を覆い隠すたくさんの破風飾り(ココシニク)はあたかも松かさのごとく、建物全体に重みと偉容を加えている。そして頂部の円蓋は、ロシア教会に特有の「玉ねぎ型」にふくらんだ丸屋根ではなく、ビザンツ式(?)のフラットなスタイルにまとめられていた。この屋根が、重厚な側壁に不思議なほどよくマッチしている。
ヨアン教会は16世紀半ば、かのイヴァン雷帝によって建設された。先のページでも触れたように、雷帝はコロメンスコエという土地に縁が深いと言えるかもしれない。そして雷帝時代の記念碑的な建築物として名高いワシーリー・ブラジェンヌイ寺院は、実はこのヨアン教会をプロトタイプとして設計されたのだという。確かに塔の表面を飾るココシニクの印象などには似通った点がある。ただ、ブラジェンヌイのあのタマネギ屋根があまりにも強烈なイメージを与えているため、一見したところではまったく異なる建築思想によるものと受け取ってしまいそうだ。
中に入ってみる。外からではよく分からなかったが、教会本体は八角形で構成されている。一面白く塗られた壁に掛かるイコンはまばらな上に豪華なイコノスタスもなく、意外なほど簡素な印象を受ける。ヴォズネセーニエに比べると訪れる信者の数も少ない。ただ彼らの捧げたろうそくが燭台の上で静かに燃えていた。教会としての活動が行われているかどうかは分からないが、人々の慎ましやかな祈りの場としては機能しているようだ。
また天井を見上げてみると、円蓋は上空はるか彼方の高みにあるがごとく感じられる。平面の広さがそれほどではないため、実際よりも高さがあるように感じられるのだろうか。色合いとしては少し寂しさを感じさせる空間の中で、この高さは圧倒的なものと感じられた。
この教会の背後は、モスクワ川を見下ろす崖となっている。おそらくコロメンスコエ全域の中でも、この付近の高低差が一番大きいのではないだろうか。傾斜もきつく、下の方を見るのが恐ろしいほどだ。かつてモスクワがタタール騎兵による襲撃を何よりも恐れていた時代、コロメンスコエのこのような地形は街を守る頼もしい砦であったに違いない。
ただ、くどいほど繰り返しているようにロシアの「要害」は日本とは趣が違っている。この険しい崖でさえも岩がむき出しになっているわけではなく、元気のいい子供たちなら平気で上り下りできるくらいのものだ。またモスクワ川の流れもあくまで緩やか、幅の広い河原ではハイキングに来た人々が憩い、あるいは若者がマウンテンバイクを縦横に走らせている。このような地形の国では、絶え間ない外敵の侵入に対する恐怖は想像を絶するものがあったはずである。(続く)
(01.09.29)
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