コロメンスコエ3
洗礼者ヨアン教会の見学を終えた後は、再び谷を越えてヴォズネセーニエ教会の側に戻り、散策を続ける。先ほど見学した正門(博物館)の背後には、かつてツァーリ・アレクセイが建てた巨大な宮殿の跡地が広がり、いくつかの歴史的建築物が点在している。芝生や並木もよく整備され、歴史を知らずとも休日を過ごすにはもってこいの美しい公園となっている。とは言え、ここまで来たらやはり史跡を探訪して帰ることをお勧めしたい。
まず谷の比較的近くにある、木造の小さな門から見学を始めよう。ログハウスのように丸太を組み合わせた、見るからに頑丈なつくりの建築物である。色塗りはされておらず地肌がそのまま見えているので、余計に質朴で重厚な印象を受ける。殊に印象的なのが、アーチ型の出入り口の上部がとんがり帽子を被せたような尖塔になっていること。先端近くに窓が開けられてており、見張り台としての役割を持つものと考えられる。また「帽子」の先に立てられた十字架から、この門が宗教的な施設に関連していることは想像に難くない。門の左右にはやはり丸太づくりで細長い建物が続いているが、こちらは武家屋敷などの長屋門を思わせるものだ。
これは1692年に建造された、ニコロ・コレリスキー修道院の「聖なる門」(正門)である。元来は白海沿岸にあったものだが、1932年にこの地に移されている。しかし全体の構造は寺院よりもむしろ城門に似ているが、実際にロシアでは教会や修道院が要塞の役目を果たすことが珍しくなかった。さらにシベリアや北ロシア(白海方面など)では、入植したカザーク(コサック)が現地の住民を支配するために木造の砦を多数構築している。この修道院も、先住民の征服と改宗という二つの役割を持っていたのではないだろうか。
「聖なる門」は無料で見学可能だが、その近くにある同じようなつくりの丸太小屋となると、入り口近くの券売所で金を払ってからでないと中に入れない。しかし何の変哲もないこの建物こそ、かつてピョートル1世が暮らした小屋に他ならない。1702年、ピョートルはアルハンゲリスク郊外・北ドヴィナ川河口に建てられたこの丸太小屋で2か月半をすごし、ノヴォドヴィンスク要塞と艦隊の建設に従事したという。
ピョートル小屋は1934年、コレリスキー修道院の門とほぼ同時期にここへ移築されている。当時、コロメンスコエを歴史建築物の野外博物館にするというプランが進められていたのかもしれない。しかしスターリン時代のソヴィエト政府は、貴重な教会を躊躇なく破壊するかと思えばこうしたマニアックな建造物を国家の力で保護するなど、その文化政策は一筋縄ではいかないものを感じさせる。少なくとも、過去の遺産に対する全否定が行われなかったことは喜ぶべきであろう。もっとも解説を見ると、この小さな建築物は、ピョートルが住まなくなった後で火災と水害とによる損傷を受けているらしい。果たしてどの程度オリジナル部分が残されているのか、不安になる話ではある。
ピョートル小屋の中は外見よりも広く、入るとすぐに小さな玄関ホールらしきものまである。この空間にはちっぽけな大砲や古い図面などが展示されている。さらにその背後には細い廊下が左右へと伸び、それぞれ寝室や食堂、執務室へと通じている。とは言っても、やはりどの部屋もおそろしく狭苦しい。とりわけ寝室に置かれたベッドの小さく華奢であることは驚くばかりで、身長2メートルを超えたという巨人・ピョートルが果たしてこんなもので眠ることができたのか、疑問に感じられるほどだ。さらに玄関ホールから廊下への出口は極端に低く作られていて、身長180センチ強の筆者でさえ相当かがまなければ通り抜けられなかった。
ところでピョートル大帝の小屋といえば、ペテルブルク建設を指揮する際に住んだそれの方が有名であろう。有名な観光名所としてガイドブックにも載せられているのは、大概はペテルブルク版の小屋である。ふつう、このようなピョートルの小屋好みは大帝一流の気取りのなさ・質実剛健さの表れとして受け取られているが、実はピョートルは広い場所にいると落ち着くことができない、一種の精神病に罹っていたらしい(閉所恐怖症の逆、と言えようか)。西ヨーロッパ歴訪の際に指定された寝室を使わず、従僕の小部屋に引っ込んでしまうという奇行で人々を驚かせたのも、理由は同じであろう。ピョートル小屋の必要以上に低く作られた出入り口や、息苦しくなるような小部屋には、この類まれなる人物の一断面が確かに現れている。
この2つの木造建築から谷とは反対側に向かい、きれいに整えられた小道を歩く。現在は家族連れでにぎわうこの公園が、かつて人々の耳目を驚かせたツァーリ・アレクセイの宮殿であったことなど、今では想像する方が難しい。ただ、先に訪れた優美な正門が在りし日の栄華を今に伝えている。
とは言え、旧敷地内にも一つだけ、アレクセイ時代の建造物が残されている。その正門と裏門(後述)を結ぶ大きな道に面した、奇跡を成就するカザンの聖母イコン聖堂である。ロシアの教会の名前は直訳するとこのように長くなってしまうことが多いが、要するに聖母のイコンに捧げられた教会であるわけだ。これはツァーリ・アレクセイの私的な礼拝所であり、宮殿とは屋根のついた回廊で結ばれていた。ただ、宮殿自体が木造であったのに対してカザン聖堂は石造りで、そのために破壊を免れて今日にまで至っている。
カザン聖堂の石壁は一面白く塗られ、屋根はロシア独自のネギ坊主型ドームが5つ、青地に金の星をちりばめてそびえ立っている。日本人がロシアに感じるエキゾチックな印象を具現化したかのごときこの教会は、とりわけ晴れた日の真っ青な空を背景にすると、えもいわれぬほど美しく感じられる。スケール的にも、ロシアにありがちな並はずれた大きさではなく、日本人好みの大きさと言っていいかもしれない。
聖堂の入り口は、階段を上った2階部分にある。先に訪れたヴォズネセーニエ教会と同じ形式だが、こちらでも1階がどうなっているのかはよく分からない。ダニーロフ修道院の諸聖神父聖堂で見たように独立した礼拝所として使われているのか、あるいは単に高床式の構造となっているだけなのか。階段の近くには、人々から施しを求める物乞いの姿が見られる。ロシアの教会では珍しくない、そしておそらくは幾世紀もの間変わることのなかった光景であろう。
階段はかつてアレクセイ宮殿があった南側に付設されているのだが、教会自体の入り口は建物の西側にあるため(これはロシア教会建築のセオリーである)、90度向きを変えて中に入る。内部はまず中心に礼拝室、そしてその周囲を回廊が巡るという、これまたロシア教会の基本形を踏まえて造られている。ただし礼拝室の奥(イコノスタスの向こう側)は、儀式の際に聖職者が使用する祭室(後陣、アプシダ)となっているため、回廊はそれ以外の三方に限られているわけだ。
礼拝室正面の回廊部分には売店があり、人々はここでろうそくを買うと、教会内の燭台にそれを捧げる。祭日であったためにとりわけ参拝者が多かったのか、ろうの燃える匂いが聖堂の中に立ちこめ、また数多くの炎がイコンに反射して揺らめく様には何とも言えない印象を与えられる。この正面回廊にもすでにイコンや聖堂が飾られているが、中でも礼拝室への入り口近くに掛かっているイコンには注目したい。かなり古い時代のものらしく、ガラスの額縁(?)で保護されている大型の一枚絵である。画面上部には諸聖人や天使の座する天国があり、また下では恐ろしい地獄の炎で罪人たちが焼かれている。さらに右方には巨大な蛇が描かれ、「貪欲」や「欺瞞」など罪の名前が記された帯がその胴体に巻き付いていた。いかにも古めかしい画法で色合いもくすんでいたが、それだけになおさら奇妙な生々しさをもって見る者の心に迫ってくる絵と言えるかもしれない。
また左右回廊のうち、左手の方は改修中らしく通ることができなくなっていた。そのため右の回廊にだけ入ってみたのだが、壁に直接描かれた聖像画がとりわけ目についた。まず入り口上部には第1回全地公会議、そして回廊左手にはコンスタンティヌス大帝とその母エレーナ、右手にはそれと対面する形でウラジーミル聖公と祖母オリガが描かれている。周知の如くコンスタンティヌスはローマ帝国でキリスト教を公認し、ウラジーミルは「ルーシの洗礼」を推進した。またエレーナもオリガも共に熱心なキリスト教徒であったとされ、特にオリガは洗礼名として「エレーナ」を名乗っている。つまり左右の壁に描かれた人物が互いにアナロジー関係を持っており、しかも聖なるキリスト教帝国・ローマとルーシとの関連性が暗示される、まことに優れた配置と言えるだろう。ちなみにこのオリガは若く、意志の強さを感じさせる力にあふれた女性として描かれていた(絵自体は新しいものらしく、伝統的な画法に比べてリアリティがある)。
さらに奥に進むと、また左右の壁に別れてアレクサンドル・ネフスキーとイーゴリ公が描かれていた。しかしネフスキーはともかく、イーゴリって誰だ?リューリクの子・イーゴリはそもそもキリスト教徒ですらなかったし、『イーゴリ軍記』に出てくるあのイーゴリ公にしても列聖されたという話は聞かない。しかしアレクサンドルと向かい合わせとすると、何らかの武勲に関連する人物のはずで、するとやはり『軍記』のイーゴリ公だろうか。ともあれ、この回廊は「祝福された、偉大なルーシ(ロシア)」をテーマとしてまとめられているようだ。教会はそれぞれ寓意に満ちた建築や絵画によって成り立つ、シンボリックな小世界なのである。
回廊を見終えると、いよいよ中心の礼拝室へ。この聖堂では、礼拝室が壁によって前後に仕切られている点が特徴的である。特に儀式の際など、ここには多くの会衆を集めることが必要だろうに、どうしてまたわざわざ空間を狭く使うのだろうか。もしかすると、一般向けではなくツァーリの私的な教会であったことと関係があるのかもしれない。また、祭室に面した奥の方の礼拝室には、2本の太い柱が天井を支えているのが特に目立つ。内井昭蔵著『ロシアビザンチン 黄金の環を訪ねて』によれば、この時期にイコノスタスを高く作る傾向が現れ始めたことと関係があるらしい。なるほど、この教会のイコノスタスは背が高くて豪華なものである。またイコンだけではなく壁一面が聖像画で埋め尽くされ、2本の「大黒柱」にも聖人が描かれており、見る者を圧倒する視覚的効果を与えている。もっともこれを「視覚的効果」という言葉でしか表現できないのは、信仰なき者の悲しさであろうか。
カザン聖堂を出ると、そろそろコロメンスコエの見学も終わりである。最後にアレクセイ宮殿正門から続く道を少し歩いてみよう。やがて、レンガに白く漆喰を塗ったもう一つの門へと至るはずである。正門ほど大きく派手なつくりではないが、やはり大小二つのアーチ型の出入り口があり、また上部は木造で鱗状の飾り屋根となっている。これは同じくアレクセイ宮殿で裏門としての役割を果たしていた、スパスキエ門である。かつて救世主(スパス)の聖像画が門上に掲げられていたために、この名があるのだという。また門の左右には白塗りの塀が巡らされているが、これもおそらくは宮殿を守っていたものであろう。
6月にコロメンスコエを訪問したときの見聞記は以上であるが、実は9月の2日にもう一度ここを訪れている。そこで気づいたのは、スパスキエ門のすぐ手前(宮殿敷地内)で発掘を行っていたことである。6月にはまだやっていなかったのか、あるいは単に見落としただけなのかははっきりしない。説明書きによれば、ここには昔ツァーリの食事を整える厨房があり、外国から運ばれてきたワインなども貯蔵されていたのだという。のぞき込んでみると確かに建物の痕跡が見られ、また地下深くまで掘り下げられた一隅からも石積みの壁らしきものが出土していた。食料品などを蓄えた地下倉庫の跡と思われる。
しかし肝心の調査隊は見当たらず、一応フェンスで囲ってはあるが監視する人の姿もなかったので、外から人が自由に出入りしていたのには驚いた。好奇心の強い子供など、地下室跡(?)にまで降りていって物珍しげに辺りを見回す始末。主要な発掘調査は終わった後なのかもしれないが、それにしても…この辺りの管理の甘さがいかにもロシア、という感じはする。偽の土器でも埋められたらどうするんだろう。(01.10.21)
ロシア歴史紀行へ戻る
ロシア史のページへ戻る
ホームページへ戻る