スパソ・エフフィーミエフ修道院
おそらくはスーズダリでも最大の規模を誇る修道院。1352年の創建で、当初はスパスキーもしくはプレオブラジェンスキー修道院と呼ばれていたが、16世紀になって創立者である聖エフフィーミーの名にちなんで改称されている。エフフィーミーはニジニ・ノヴゴロド出身の修道士で、スーズダリ公ボリス・コンスタンチノヴィチの求めに応じてこの地に来たり、修道院を開基した。スパソ・エフフィーミエフ修道院は街の北のはずれともいうべき位置にあり、最初から石造りの壁や塔で守られていたというから、市域北辺を守護する要塞としても期待されていたのだろう。
実際、スパソ・エフフィーミエフは何度となく戦火に見舞われている。現在この修道院を取り巻いている城壁と塔も、17世紀にポーランド軍によって荒らされた後で再建されたものだという(「動乱」の最中の1608年、ポーランド軍はスーズダリの街を劫略している)。それより時代をさかのぼると、タタールの軍勢もスパソ・エフフィーミエフ修道院を襲っている。戦乱相次ぐ中世ロシアにおいて、修道院は魂の救いの場であると同時に、堅固な城塞として血腥い戦いをも経験しなくてはならなかったのである。
初めてスパソ・エフフィーミエフ修道院を訪れる者は、外部から一望しただけでその偉容に驚かされることだろう。広大な修道院の敷地は、見上げるほどの高さを持つ赤レンガの城壁と、12の頑丈な塔によって守られている。とりわけ正面入り口となっている方形の塔は、あたかも天守閣の如き規模を持っている。しかしその屋根の部分だけは木造、しかも伝統的なスラヴ様式で作られており、何とも不思議な印象を与える。塔にも城壁にも至るところに銃眼が穿たれているほか、中に入ると城壁の内側上部には射手用の回廊が設けられているのが分かる。まさに城塞そのものである。
この巨大な塔をくぐって中に入ろうとすると、そこは券売所になっていて、係りのおばちゃんに入場料を払わなければならない。先に見たリゾポロジェンスキー修道院と違い、スパソ・エフフィーミエフは観光化が進んでいるらしい。「現役」の修道院としての活動は行われていないか、修道院内の一部の教会に限られているのだろう。その代わりと言うべきか、建物の保存状態は概して良好で、一部では修復作業も進んでいる。リゾポロジェンスキーとはえらい違いだ。ツーリストに見せる用か否かで、これほど差が出てしまうものだろうか。
中に入る。広大な修道院の敷地内はよく整備されていて、観光客の姿も多く見られた。教会や僧坊といった建物は昔の姿で残されているが、多くは博物館や展示コーナーとなっているようだ。時間の関係から、今回はそのうちのいくつかしか見ることができなかった。
最初に、何の考えもなしに入った右手奥の建物は修道院牢獄展示館であった。クレムリ内の博物館で見たように、かつてのスーズダリは離婚された皇妃などの流刑地でもあり、スパソ・エフフィーミエフ修道院は18世紀後半からソ連時代に至るまで国事犯の収容所として使われていた。この悲しむべき歴史を物語る展示館というわけだ。以前からあった展示にソ連時代の資料を加えて、2001年に再オープンしたとのことである。
まず古い独房をそのまま残しているコーナーでは、帝政時代の牢獄の模様について語られている。独房の1つでは人形を使って当時の生活を再現していた。意外にもサモワール(ロシアの湯沸かしポット)などという贅沢なものが置いてあったのだが、お茶は囚人の実費であった由。この牢獄に囚われていた人々としては、古儀式派や去勢派・モロカン派その他「異端」とされた宗教セクトの指導者、それにデカブリスト(1825年に反乱を起こしたリベラルな貴族グループ)などが紹介されていた。
さらに先へと進むと、まずソ連時代の華やかな各種ポスターが並べられている回廊があり、その後でいきなり弾圧資料のコーナーが現れる。意図的なレイアウトかどうかは分からないが、その落差は効果的で、衝撃的でさえあった。例えばソ連当局に逮捕された聖職者の写真。収容所に送られた後で撮影されたものは、痛々しいほどやつれてしまってまるで別人である。ちなみにこの修道院は1923年から39年まで収容所として使われ、40年には旧ポーランド軍内のチェコ人捕虜が、また43年にはスターリングラードの敗兵がここに送られた。これに関連して、ドイツ第6軍を指揮したパウルス元帥の写真や、イタリア人捕虜の描いたイラストなども展示されている。さらに戦争が終わった46年以降、修道院は不良少年の収監施設として使われており、展示館では63年にガガーリンが少年たちに会いに来たときの写真を見ることができる。
言うまでもなくこれらは、ロシア史の負の側面を物語る資料で、そう遠くない過去におけるこの国の暗部を垣間見ることができる。同時に、こうした展示館が誕生したこと自体、時代の変化を示すものだろう。
次に入ったのが装飾芸術展示館で、比較的新しい建物である。ロシア史の古い時代に興味のある方には、こちらの方がお勧めである。例えば12世紀の金の刺繍、8〜13世紀の指輪、11〜12世紀の胸にかける小型のイコン(宝石つき)、16世紀頃のイコンの額、それに多くの宝石で飾られた十字架などなど。とりわけ、小さな指輪や十字架などには恐ろしく細かい装飾が施されており、見事なものである。キエフ・ルーシの時代から、装飾芸術の職人たちが高い技術を誇っていたことがうかがい知れる。それからまた、豪華な装丁の大きな聖書も飾ってあった。表紙は銀で作られており、立てて置けば矢玉でもはじき返すのではと思われるほど。
非常に狭い階段の先にある2階ホールは、主に教会関連の装飾品を展示している。豪壮華麗なことで名高いロシア正教の典礼に使うものとて、どれもこれもまばゆいばかりの金銀細工。1階のものに輪をかけて大きな聖書(1725年製)もあったが、一人では到底持ち運びできそうにないサイズである。また、その表紙には様々な意匠の装飾がなされていて興味深い。中には人面の獅子(マンティコア?)や翼のある牛が手に書物を掲げている図など、むしろ異教時代を思わせるユニークな図柄もあった。おそらく、キリスト教世界にとって何らかのシンボル的な役割を果たしているものだとは思うが。
さて、修道院の中で中心的な位置にあるのがスパソ・プレオブラジェンスキー聖堂である。中央部には黄金の丸屋根が輝き、そしてその周囲を緑の丸屋根が取り巻いている。澄み切った青空を背景にした聖堂の姿は、ロシアの教会建築を見慣れた身にとってさえ殊に美しく感じられた。
聖堂自体は16世紀末の建築物だが、その内部には17世紀のフレスコ画が残されている。色合いは青を基調としており、なかなかに印象的。しかし今では聖堂としての機能を果たしていないもののようで、イコノスタスさえ撤去されており、がらんどうと言っていい状態である。おかげで、一段高くなった内陣(至聖所とも。普段はイコノスタスによって信徒の席からは隠されている部分)の様子を見ることができるのだが。床はモザイクによって様々な文様が施されている。これなどはローマやビザンツを思わせる手法だ。また、一隅の床にはやはりモザイクで「シビリスク・トボリスクの府主教パーヴェル」と書かれていた。墓所なのかどうか、ちょっとよく分からない。
聖堂のすぐ前には鐘楼が建てられている。ちょうどお昼頃だったか、修道僧たちが鐘楼に登って鐘を鳴らし始めた。ロシアの教会にとって、鐘は唯一許された「楽器」であり、その独特の音色は芸術的に高く評価されている。この時にも多くの観光客が美しい鐘の音に耳を傾け、鳴り終わるや拍手でこれを讃えた…いや、本来そういう趣旨のものではないような気がするんだが。客のために鳴らしてるわけではないんだし。もっとも、観光化の度合いが大きいこの修道院のことだから、本当にサービスのつもりだったという可能性も捨てきれない。
最初にも書いたように、スパソ・エフフィーミエフ修道院は堅固な城塞として作られており、入り口の巨大な塔をくぐった先にももう一つの門が設けられている。そして、門の上部はそれ自体が1つの教会となっている(戦時には櫓門の役割を果たしたはずである)。現在この教会は博物館となっており、我々も最後に立ち寄ってみた。
この博物館のテーマはポジャルスキー公。17世紀初頭、所謂「国民軍」を率いてポーランド軍をロシアから駆逐し、スムータ(動乱)を終わらせるために貢献したことで知られるドミトリー・ポジャルスキー公の一族は、この修道院に葬られているのである。ちなみに修道院の外壁のすぐそばにも、いかめしいひげ面をしたポジャルスキー公の胸像が建てられていた。
階段を上って門上の博物館へ。まず、入り口前の壁ではソ連時代の宣伝ポスターでポジャルスキー公の勇姿を拝むことができる。戦争中、アレクサンドル・ネフスキー、クトゥーゾフ将軍などロシア史上に名高い軍の指揮官たちは、皆「国民的英雄」として動員され、戦意昂揚の宣伝に利用された。ドミトリー・ポジャルスキー公もその一人というわけである。そして中に入ると、ポジャルスキー家の墓石、イコン、公の一族が修道院に寄進した品々、モスクワ解放を記念して作られた豪華な宝石付きのサーベル、それに当時の武器(大砲や槍など)が展示されている。石でできた砲弾があるのが面白い。動乱終息の後で帝位についたミハイル・ロマノフが、ポジャルスキー公に送った所領に関する文書なども貴重なものである。
また、歴史をテーマにした絵画も飾られていた。ポジャルスキー公がニジニ・ノヴゴロドの商人クジマ・ミーニンから説得され、ポーランドの手からロシアを解放するべく、国民軍の指揮官として立ち上がる名場面である。実はこの時ポジャルスキー公は負傷療養中で、絵の中でもベッドの上に横たわる姿で描かれていた。その脇にはミーニンが立って熱心に口説いているのだが、ポジャルスキーの表情は心なしか迷惑そうに見える。それから、ミーニンが国民軍のための寄付を募る様子を描いたもの。人々が先を争ってミーニンの足許に金銀財宝を投げ出している。本当にこういう場面があったのか?というと疑問だが、愛国的な歴史絵画ってことで一つ。
これでも修道院のすべてを見て回ったわけではないのだが、こんなに長い訪問記となってしまった。単に広いだけでなく、展示資料もそのコンセプトも興味深いものばかりで、訪問の価値は充分にあると言える。スーズダリ観光の際には見逃せないポイントの一つであろう。
修道院外壁と入り口の塔
観光客の姿と比べると、その大きさがお分かりいただけるだろう。スパソ・プレオブラジェンスキー聖堂
(右手前の建物が鐘楼である)
(03.05.13)
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