クレムリン2
この見出しって、何だか「グレムリン2」みたいですな。どうでもいいことですが。
2001年4月28日。別に日付を入れる必要もないのだが、この度モスクワに来てから初めてクレムリンを訪れてみた。前に来たのはもう8年も前のことで、しかもガイド付きで通り一遍のエクスカーションにすぎなかったから、あまり印象に残っていない。そのため、今回まるで初めて見学するかのような興奮と感動を覚えた。
一般の観光客がクレムリンに入るには、三角形の左辺(かつてネグリンナヤ川が流れ、現在はアレクサンドロフスキー公園がある側)に回り、二つの塔のいずれかを使わなくてはならない。赤の広場側にも門として使用されている塔があるが、これは政府高官の専用のもので、常に守衛によってガードされている。うかつに近づくと怒られるので気をつけましょう。
さて、一般人向けの通用門となっているのは、トロイツカヤ塔とボロヴィツカヤ塔の二つである。どちらから入っても対して変わりはないのだが、今回はトロイツカヤを使った。これは上記「左辺」の真ん中の辺りにある塔で、地下鉄「アレクサンドロフスキー公園」もしくは「レーニン図書館」のいずれかで降りるとよい。どうやら券売所(そう、クレムリンには無料で入れるわけではないのだ)はトロイツカヤの近くにしかないようなので、やはりこちらの方が便利か。それから、あまり大きな荷物は持って入れない規則になっており、そのための預かり所もトロイツカヤの近くにある。
券売所のあるアレクサンドロフスキー公園から見上げると、クレムリンの城壁と塔はことのほか高くそびえ立っているように見える。前にも書いたように、この公園が(かつて川底であった関係からか)周りより少し低くなっているからだが、中でもこれから入ろうとするトロイツカヤ塔の高さは印象的である。実際、トロイツカヤはクレムリンをめぐる塔の中でも最高の高さを誇り、80メートルに達するのだという。
このトロイツカヤ塔をくぐるには、まず橋を渡らなくてはならない。昔はネグリンナヤが流れていたから当然なのだが、川が埋め立てられた現在では陸橋のようになってしまっている(橋桁のアーチ部分を見ると、半分地面に埋まったような形をしているのが分かる)。またトロイツカヤの対岸、橋のたもとにはもう一つ小型の塔(クタフィヤ塔)が設けられていて、これをくぐらないと先に進めない。つまり、橋をはさんで二つの塔で入り口を守っているわけだ。
かつてこのトロイツカヤ塔は、モスクワ大公やツァーリが出陣するときに使う公用門であったとのことである。そのような「大手門」を特に厳重に、また美々しく作るのは洋の東西を問わないのであろう。
さて、首尾よく入場券を購入して、いよいよ中へ。石畳が敷き詰められた橋に立って見上げると、トロイツカヤ塔はいよいよ威厳をまして見え、胸が高鳴った。これが、かつて歴代の支配者によって使われた正門なのだ。
ところでふと左手を見ると、トロイツカヤ塔のすぐ下にレンガ製のテラスのような張り出しがあるのに気づいた。これは、橋の上にまで攻め入った敵兵を掃射するための射撃陣地なのではないか。日本の城郭でも、門の前には「馬出」と呼ばれる防御区画を置く事例が多かった。ただし、別の目的で後に付設された可能性もあるので、はっきりしたことは言えない。
そんなことを考えながら、トロイツカヤ塔へ。真下から見上げると、尖塔のてっぺんがよく見えないくらいに高い。鋭く尖った屋根はカトリック圏の大聖堂にも似て、あまり「ロシアらしく」見えないほどだ。また、その先端にはソヴィエト時代のシンボル「赤い星」が輝いている。これはクレムリンの中でも特に大型の塔に据え付けられており、昔は帝国のシンボル「双頭の鷲」が飾られていたのを、革命後に撤去して星に付け替えたものである。
これを元通り鷲に戻す、というプランもあるようだが、今のところは星のままになっている。そもそも革命後、星に替えたときも、やはり数年間は鷲のままで放置されていたらしい。いい加減と言うべきか細かいことにこだわらないと言うべきか、いかにも「ロシアらしい」という印象を受ける話ではある。
塔の下部には、真鍮か何かで出来たプレートが据え付けられている。書いてあるのは、まず塔の設計が建築家フリャージンによってなされたという情報。フリャージンとはまるでロシア人のような名前だが、これはイヴァン3世の時代にイタリアから招かれた技術者で、そもそもフリャージンというのも本名ではなかった。かつてビザンツ帝国は西ヨーロッパを総称して「フランク」と呼んでおり、ルーシ/ロシアでもそれに倣っていた。従って、「フリャージン」とは「フランク人」のことなのである(ロシア風に変化して原型が分からないほどだが)。かつて日本でも、渡来人の子孫が「秦氏」などと呼ばれたことを考えあわせると、ちょっと面白いかもしれない。
ちなみに、イヴァン3世時代の史料には多くの「フリャージン」が現れ、クレムリン内の教会を設計した別の建築家「フリャージン」氏も存在する。これらは皆、イタリアからモスクワに招聘されたイタリア人なのであった。ピョートル大帝以前のロシアは西欧に対して閉ざされた国であった、というのが一般的なイメージだが、一面でこのような結びつきがあったのも事実のようだ。
そしてもう一点、プレートには「1918年、レーニンがこの塔をくぐってクレムリンに入った」という記述がある。1918年3月2日、ナツィオナーリ・ホテルから一台の車がトロイツカヤ塔にやって来た。誰何に対して車中の男は自分がレーニンであると告げ、警備司令官は驚きのあまり2歩退き敬礼した…うそかほんとか知らないが、「地球の歩き方」にはそう書いてある。ともかく、ソヴィエト時代には「レーニンがここから入城した」ことが語り継ぐべきトピックスと考えられたのだろう。神話とはこうやって作られていくものだ。
塔の下の城門に入る。さすがにクレムリン最大の塔だけあって、幅もなかなかのものだ。昔は侵入してきた敵兵に対して、上から矢だの鉄砲だの熱湯だの糞尿だのを浴びせかける諸々の恐ろしい仕掛けがあったはずなのだが、今では白い漆喰できれいに塗り固められ、往時を偲ぶことは出来ない。クレムリンが城塞としての意義を失った後で、撤去されたものだろう。
そしてこの門を抜けると、いよいよクレムリンの内部である。広い石畳の道路がまっすぐに伸び、左右に巨大な建物がそびえ、その向こうには金色に輝く教会の丸屋根が我々を待ち構えている。
…といったところで、いよいよこれから肝心の部分を見ていこうと思うのだが、あんまり一度に書くと長くなりすぎるので、ここらで少し休憩。文章をコンパクトにまとめる才能がないのは、すでに「城跡」のコーナーなどでも思い知らされているんですけどね。ロシアに来てもやっぱりその癖は治っていないみたいです。
(01.05.26)
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