ウラジーミル

 ウラジーミルこそは、ロシアの歴史において重要な転機を演出した都市である。最古代よりキエフにあったロシア国家の「中心」は、12世紀頃から北東ルーシのウラジーミルに移り、やがてモスクワへと受け継がれた…教科書的なロシア史概説ではほぼこのような図式が一般的となっている。一方でウクライナの民族主義的な歴史家は、ウクライナこそがキエフの伝統を継ぐものであって、ウラジーミル/モスクワ・ロシアはキエフ・ルーシとは異なる伝統を持つ、と主張している。いずれの見解を採るにせよ、ウラジーミルがモスクワの直系の祖であることは否定できないわけだ。キエフとモスクワの間に挟まれてあまり目立たないウラジーミルだが、その歴史的役割はもっと注目されていい。

 ウラジーミルはモスクワより東方におよそ190キロ、クリャジマ川のほとりに位置している。この街がいつ誕生したのか、実ははっきりとは分かっていないらしい。一般的には12世紀の初め頃にウラジーミル・モノマフ公が築いたとされているが、モノマフの曾祖父・ウラジーミル聖公の時代(10世紀)、すでにその原型が見られたという説もある。いずれにせよ、創建者の名前から街そのものも「ウラジーミル」と名づけられたわけだ。なお、古代ルーシにはこの他にもウラジーミルという都市が存在したため、「この」ウラジーミルはウラジーミル・ナ・クリャジメ(クリャジマのウラジーミル)もしくはウラジーミル・ザレスキー(森の彼方のウラジーミル)と呼ばれることもある。

 初期のルーシ国家において先進地と呼べるのは、キエフを初めとする南方・ドニエプル川沿いの大都市か、もしくはバルト海への出口に近いノヴゴロドであった。これに対してヴォルガ上流やオカ川周辺の北東ルーシでは、その大部分がいまだ鬱蒼たる大森林に覆われており、フィン・ウゴル系の諸民族が分散して居住する中、スラヴ人の入植がようやく始まろうとしていた。ウラジーミルが「ザレスキー」すなわち「森の彼方の」という通り名で知られるのも、こうした事情によるものである。
 とはいえ、北東ルーシは時代を経るに従って成長していく。この地方の大森林は足下に肥沃な大地を隠しており、また網の目のごとく広がる河川網は、格好の通商ルートとして利用された。大きく見れば、北東ルーシの河川はほとんどがオカ・ヴォルガ水系に属しており、アラブ世界など東方文明圏との接続を可能としている。
 とりわけ12世紀前半、モノマフ公の息子であるユーリー・ドルゴルーキーがこの地方の支配者となると、北東ルーシの発展は一気に加速した。この時期に北東ルーシの政治的・経済的影響力は飛躍的に高まり、ユーリーはこれを背景として首都キエフをも手中に収めんと望むほどであった(ユーリーが後に「ドルゴルーキー」すなわち手長公とあだ名されるのも、遙か南方のキエフ攻略に血道を上げていたからである)。そしてユーリー公が念願のキエフ征服を果たした後に急死すると、その息子アンドレイ・ボゴリュープスキー公と共に、いよいよウラジーミルも歴史の表舞台に登場する。1157年のことであった。

 戦場では狂気に近い勇猛さによって恐れられたアンドレイ公は、同時に政治家としても豊かな資質を持っていた。北東ルーシの支配者となったアンドレイは、それまでこの地方の中心であったロストフやスーズダリに代わり、ウラジーミルを新たな本拠地として選んでいる。専制的な公権力の確立を目指したと言われるアンドレイにとって、いまだ土着勢力が成長していない新興都市ウラジーミルを拠点とすることは、何かと都合がよかったのだろう。
 何より重要なのは、父ユーリーと異なりアンドレイがキエフに対する執着を見せなかったことであろう。冷徹なリアリスト・アンドレイは、「ルーシの街々の母」キエフ征服にロマンを感じることなく、北東ルーシに腰を据えてその経営に専念する道を選んだ。キエフを中心とした統一は過去のものとなり、ルーシ国家は再編成の時期を迎えていたのである。1169年、アンドレイ配下の諸公が指揮する軍勢がキエフを攻め落とした時も、彼は破壊されたキエフを弟に与え、自らがウラジーミルを離れることはなかった。この事件によってキエフの威信はより一層低下し、逆にウラジーミルの政治的影響力が大きくクローズアップされていく。
 1174年にアンドレイ公が暗殺された後、ウラジーミルの街はロストフやスーズダリなど「年長都市」の巻き返しを退けて内戦に勝利し、アンドレイの弟フセヴォロド・ボリショエ・グネズドー(大巣公)の治下に新たな繁栄の時期を迎える。フセヴォロド公は12世紀末から13世紀初頭にかけてのルーシで最も強大な支配者の1人であり、他の諸公から「父」として敬われるに至った。こうして、かつての「辺境」北東ルーシでも新興勢力のウラジーミルは、わずか数十年のうちにルーシの政治的中心の一つにまで成長を遂げたのである。さらにアンドレイとフセヴォロドの兄弟は熱心な建設活動を行い、ウラジーミルは数多くの壮麗な建築物で飾られている。

 ウラジーミル自体の繁栄は、しかしながら、それほど長くは続かなかった。当時のルーシで最大の勢力を誇ったウラジーミルも、東方からの新たな敵・モンゴルには抗し得なかったからである。1238年2月、バトゥ率いるモンゴル軍は数日の包囲戦の後にウラジーミルを落とし、街は破壊と略奪にまかされた。以後、街は再建されたもののかつての勢いを取り戻すには至らず、北東ルーシ地方の主導権はモスクワやトヴェリといった新世代の都市に移っていく。やがてモスクワ大公国が覇権を手にすると、ウラジーミルはその一地方都市という位置に甘んじることとなった。ちなみに現在のウラジーミル市は同名の州の州都であり、人口37万の規模を持つ中堅都市である。
 しかし一方で、モンゴルの支配下に入った北東ルーシの中でも、最大の実力を持つ公は依然として「ウラジーミル大公」の称号を帯びていた。実際にその位に就いたのがモスクワ公でありトヴェリ公でありスーズダリ公であったとしても(彼等は「首都」ウラジーミルに移り住もうとはしなかった)、ウラジーミルの玉座は変わらず権威の象徴であり続けたのである。最終的に、この権威を受け継いだモスクワがロシア国家の新たな中心に成長したことはご存知の通り。こうした経過を見るなら、ロシア史の中でウラジーミルの果たした役割が決して小さくはなかったことがお分かりいただけるだろう。

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 ウラジーミルの街が位置しているのは、クリャジマ川のほとり・小高い丘の上である。起伏の少ないロシアにおいては、ほとんど「山」と呼んでもいいだろう。もともとウラジーミルは、クリャジマ川の流れを押さえる要塞としてスタートしたものと考えられるが、街の立地条件からそうした軍事的な意味合いを理解することができる。殊に市内最高所は天然の展望台となっていて、かつては外敵の侵入に対する監視所としての機能も果たしていたはずだ。
 展望台から見下ろすクリャジマは川幅広く、水量も豊かで堂々たる景観を呈している(水そのものは茶色く濁っていたが)。かつてこの川はウラジーミルを守る水堀であると同時に、街を潤す交易ルートの役割をも果たしていた。実際、クリャジマをずっと下っていけばオカ、そしてヴォルガ川を経てカスピ海にまで出ることができる。また遠方を見渡せば、蛇行して流れるクリャジマとその両眼に広がる草原、そして地平線いっぱいに横たわる森林と、ダイナミックな景観が目に飛び込んでくる。日本ではちょっとお目にかかれない光景だろう。とりわけ、地平と空との間に人工物らしきものが何一つ見あたらず、ただ緑の森によって縁取られているというのは、ダイナミックすぎて怖いくらいだ。まるで他の文明世界がことごとく滅び去り、この街だけがポツンと取り残されたかのような、そんな心細い錯覚にさえとらわれる。この光景は、ウラジーミルが殷賑を極めた頃からあまり変わっていないのではないか。これもまた、「歴史的な」景観と言っていいかもしれない。
 当時の人々は、この光景を一体どのように受けとめたのだろうか。人間が今より遙かに強大な自然に取り巻かれていた時代のこと、この程度の森林では驚かなかったかもしれない。しかしそれだけに、この巨大な自然空間の中に忽然と現れた壮麗な都市・ウラジーミルが与えた視覚的なインパクトは大きかったようにも思われる。と、無理に歴史に結びつけなくとも、素直に見るだけで充分に楽しめる景観ではあるのだが。

(続く)


ウラジーミル市内よりクリャジマ川を望む。写真ではよく分からないが、地平線上に黒っぽく広がっているのはすべて森である。

(03.07.03)


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