ウラジーミル2
(Тимофеева, Т.П., Золотые Ворота во Владимире, 2002 г., стр.10)
ウラジーミルの街は、クリャジマ川北岸に南西から北東へと向かって伸びる、くさび形の丘陵上に展開している。その地形については、上の図を見てもらえれば分かりがいいだろう。とりわけクリャジマ川に面した南側斜面の傾斜がきつく、ほとんど崖と言ってもいいくらいだ。点線の部分はかつての土塁かつ市域でもあったラインだが、今ではその一部しか痕跡をとどめていない。
もちろん、現在の市街地は丘陵地を下って平野部にも広がっている。くさびの先端のそのまた向こう側は、巨大な煙突をいくつも生やした工業地帯となっていて美しからぬ景観を呈している。もっとも当の市民にとっては重要な職場となっているはずで、一観光客が景観について云々するなど僭上の沙汰かもしれないが。それから、街とクリャジマ川との間に伸びる細長い低地は、現在では鉄道の駅として使われている。街に到着したとき、列車の窓からウラジーミルを見上げると、緑の木立の向こうにそびえるウスペンスキー聖堂の黄金の丸屋根が非常に印象的だった。全体として樹木が多く、緑豊かな街という印象を受ける。
かつてのウラジーミルは、土塁(とおそらくは堀)によって3つの区画に分かたれていた。まず、上図ではローマ数字Iで示されているのが「スレードニー・ゴロド(中の街)」もしくは「ゴロド・モノマハ(モノマフの街)」と呼ばれている街区で、ここには歴史的な建築物が集中している。市内最高所にあって見晴らしもよく、ウラジーミルの中でも最も重要な地区と言えるだろう。その北東部、くさびの先端にあたるのが「ヴェトシャヌイ・ゴロド(古い街)」(図では番号IIで示されている)。史跡の面では「中の街」ほど恵まれているとは言えず、いまひとつ目立たない場所ではある。そして番号IIIにあたる南西地区は「ノーヴイ・ゴロド(新しい街)」という名で呼ばれている。名前からして、ウラジーミルの発展により新たに街へとつけ加えられた地区であると察せられる。新しいと言ってもその歴史は数百年に及ぶもので、市の正面玄関にあたる黄金の門など、多くの歴史的記念物がこの地区を飾っている。
先にも触れたように、この3つの「街」は市の発展に伴って整地され、数カ所残った土塁を除いてほとんどその輪郭をとどめていない。ただし、I(スレードニー・ゴロド)はIII(ノーヴイ・ゴロド)に比べて一段高くなっている辺り、かつての名残と言えるのかもしれない。おそらくはもとからあった自然地形を利用して「街」の輪郭が定められたのだろう。また、2つの「街」の間には谷状に一段低く掘り下げた形で自動車道が通っており、これが昔の堀を利用したものかどうかは不明である(復元画を見る限りでは、この場所に堀は設けられていなかったようなのだが)。
海鼠状に細長く伸びるウラジーミルの街は、まるで海鼠の食道のごとき大通りによって南西から東北方向へと貫かれている。かつては西半分が第3インターナショナル通り、東半分がフルンゼ通りと、いかにもソヴィエト的な名前がつけられていたのだが、現在ではそれぞれ大モスクワ通り、大ニジェゴロド通りと改称されている。おそらく、この通りをずっと西に進めばモスクワへ、また東へ行けばニジニ・ノヴゴロド(ニジェゴロド)へと至るのだろう。古くからウラジーミル市のメインストリートとして機能していた通りで、かつては単にボリシャヤ通り(大通り)と呼ばれていたものらしい。市域の西端、街の表玄関である黄金の門(分かり辛いが、上図で街区IIIの西端に数字「1」で示されている門)をくぐってから東端に抜けるまで、通り沿いにはウラジーミルを代表する数々の歴史的な建築物が残されている。(※これは余談になるが、ウラジーミル市内においてソヴィエト的な地名が改称された(もしくは旧名に復された)例は、大モスクワ/ニジェゴロド通り以外にもいくつか見られるようである。ただし、依然として「ソヴィエト地名」は多く残っている他、改称が地図の上で反映されていない場合も多いらしい。地元の人々にとってみれば数十年間慣れ親しんだ地名であり、ソヴィエト体制が崩壊したからといってにわかに捨て去ることはできないのかもしれない。そういうわけで、ウラジーミルで購入した地図には「カール・マルクス通り」「ジェルジンスキー通り」「十月大通り」「フルンゼ広場」「キーロフ通り」「サッコ&バンゼッティ通り」「ルナチャルスキー通り」等々、古式床しい(?)たくさんのソヴィエト地名を見ることができる。)
メインストリートであるこの大モスクワ/ニジェゴロド通りに沿ってウラジーミルを歩いてみれば、この街が歴史的な景観をよく保っていることが実感される。市の中心街にはそれほど巨大な建物が見あたらず、そのためウスペンスキー聖堂やドミトリエフ聖堂、黄金の門といった歴史的な建築物は、遠くからその印象的な姿を眺めることができる。また、これら国宝級の史跡に限らずとも、ロシアの伝統を感じさせる古めかしい作りの家屋や公共建築が多いように感じられた。意識して古い街並みを保護しているのか、あるいは単に近代都市として発展するだけの活力に乏しいのか、その辺りは判然としないのだが。
それから、どういう訳だか日本ハムのトラックが塗装を塗り替えることもなく使われているのに出くわした(ドアには「八王子営業所」の文字もそのままに残っている)。ロシアの古都で見るニッポンハムのロゴマークは、何とも言えぬ違和感を漂わせていた。
正直なところ、時間の制約もあってこれ以外の通りを詳しく訪ね歩いたわけではない。しかしながらもう一箇所、地図を頼りに歩いてみた場所がある。それは市域の北側を流れるルィベジ川である。ルィベジはクリャジマ川の支流であり、上の図ではあまりよく分からないかもしれないが、ウラジーミル市の東端がその合流点となっている。つまりウラジーミルはクリャジマとルィベジの河口部に位置し、クリャジマは街の南辺を、またルィベジは北辺を守る堀の役割を果たしていたわけだ。このような地形には、日本で様々な城跡を歩いたときにおなじみとなっている。
興味深いのは、この「ルィベジ川」という名前である。原初年代記によれば、「ルーシの街々の母」キエフを建設したキーとシチェク、ホリフの3兄弟には妹ルィベジがおり、現にキエフの傍らを流れる小さな川(ドニエプルの支流)もルィベジ川と呼ばれている。これと同じ名前の川がウラジーミルに現れたのは、おそらく偶然ではないだろう。キエフこそはルーシ諸都市の頂点に立ち、巨大な富と権力、また宗教的な聖性を併せ持つ存在であった。従って、キエフの持つ様々な要素をシンボリックな形で取り込んでいくことは、ルーシ諸都市にとって自らの権威を高める有効な手段であったと考えられる。とりわけウラジーミルは、キエフの正面玄関であった「黄金の門」と同名の門を建設するなど、ルーシの次世代の指導者として意識的にキエフの跡を追っていた痕跡がある。ルィベジ川もまた同じ理由によってその名を得たのではないか。
そういうわけで、歴史的な観点から見ると非常に興味深いルィベジ川なのだが…実際に見学して面白い場所ではなかった。と言うより、川そのものを見ることができなかった。地図ではちゃんと表示されているのに、行ってみると畑や薮に覆われた細長い窪地があるきりで、川らしきものは存在しない。窪地の上には怪しげなパイプラインが走っていたのだが、多分これは無関係だろう。川の方は暗渠として地中に埋められているのかもしれない(モスクワのネグリンナヤ川も同じ形)。もちろん、名前がシンボリックというだけで実際に見ても面白いものではなかっただろうが、ちょっと残念なことではある。(03.07.27)
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