ウスペンスキー聖堂
ウスペンスキー聖堂と同じ名の教会は、ロシアでは数限りなく作られている。ウスペンスキーとは名詞ウスペーニエの形容詞型なのであるが、この言葉は「眠り」もしくは「死」を意味する古語である。しかし宗教的には特に「聖母マリアの永眠」を指し、日本正教会では「生神女御就寝」という訳語をあてている。つまりこの名を持つ教会は聖母の昇天に捧げられたもので、ロシアにおける聖母信仰の広まりを物語っているわけだ。
ウラジーミルのウスペンスキー聖堂は、同名の教会の中でも早い段階に築かれたばかりでなく、ロシア最古の建築物の1つとなっている。1157年、父ユーリー・ドルゴルーキーの死を受けて北東ルーシの新たな支配者となったアンドレイ・ボゴリュープスキー公は、翌58年、ウラジーミルにおいてウスペンスキー聖堂の建築を開始した。新興都市・ウラジーミルを自らの拠点として選んだアンドレイは、壮大な建築によって街を飾ろうとしたのである。さらにアンドレイは、キエフから独立して北東ルーシに新たな府主教区を誕生させようと目論んでおり、ウスペンスキー聖堂を新たな府主教座教会に考えていたといわれる。府主教座の独立構想こそ実現を見なかったものの、ウスペンスキー聖堂そのものは1160年に完成し、その規模と壮麗さによって人々を驚かせた。年代記はアンドレイ公の建築事業を、ソロモン王のそれに匹敵するものとして讃えている。
そして1185年、聖堂が火災によって大きな損傷を被ると、兄アンドレイの後を襲ってウラジーミルの支配者となっていたフセヴォロド大巣公はその大修理に取りかかった(1189〜93年)。この際フセヴォロドは大幅な建て増しを行って聖堂の規模を拡大し、最初1つしかなかった丸屋根を囲む形で、新たに4つの小さな円蓋が設けられた。今に伝わるウスペンスキー聖堂の外観は、だいたいこのときに出来上がったと言える。しかしその数十年後、聖堂は新たな災厄に見舞われている。バトゥ率いるモンゴル軍のウラジーミル攻略戦がそれで、このときウスペンスキー聖堂に避難していた公の一族や主教、貴族たちは命を奪われ、聖堂には火がかけられたという。1238年2月のことであった。
それでも、モンゴル侵攻直後の混乱が過ぎ去るとウスペンスキー聖堂は再び修復され、ウラジーミル市自体の衰退にも拘わらず、ルーシの中心的な宗教施設として権威を保ち続けていく。後にルーシの政治的統一を果たしたモスクワも、この聖堂の権威を取り込むことにやぶさかではなかった。1475年から79年にかけてモスクワ・クレムリンのウスペンスキー聖堂再建を指揮したイタリア人技術者フィオラヴァンティは、モスクワ大公イヴァン3世の命により、まずウラジーミルのウスペンスキー聖堂を見学してそのスタイルを学んだという。キエフがコンスタンティノープルを手本とし、ウラジーミルがキエフの似姿たらんと欲したように、モスクワもまたウラジーミルの宗教的権威を受け継ごうとしたのである。
ウラジーミルのウスペンスキー聖堂は、市内の中心部、かつて「モノマフの街」と呼ばれた街区に位置している(ウラジーミル市の地理については前項を参照)。この地区はウラジーミルでも最も標高の高い場所にあたり、市外のはるか遠くから金色に輝くウスペンスキーの丸屋根を仰ぎ見ることができるわけだ。まさしくウラジーミルの王冠と言うにふさわしい。
もちろん、間近に見てもウスペンスキー聖堂の偉容は印象的であった。天を衝く黄金の円蓋は、4つのより小振りな円蓋に囲まれ、調和のとれた美しさと力強さを誇っている。聖堂の全高は32,3メートルとまさに見上げるが如き高さで、近代建築を見慣れた我々をも圧倒する。中世の人々が初めてこの建築物を見たときの驚きはいかばかりだったことか。
丸屋根の形は、ロシアの教会と聞いてすぐに思い浮かべるような玉ねぎ型の膨らみを持たず、半円形のフォルムを描いている(下の写真を参照)。これでもビザンツの教会よりは膨らみが大きくなっており、ビザンツの教会建築がロシア独自の形に発展していく過渡的な形態だと言えるだろうか。ちなみに、ウラジーミルのウスペンスキー聖堂を参考にしたと言われるモスクワ・クレムリンのウスペンスキー聖堂では、丸屋根は「ロシア式に」大きな膨らみを見せている。
また、聖堂の本体には背の高い鐘楼が付属している。かなり後代になってから聖堂につけ加えられた建築物であるはずだが、その資料を見失ってしまったのではっきりしたことは言えない。鐘楼の頂部に輝く尖塔は聖堂そのものよりも背が高く、ウスペンスキーの建築アンサンブル全体に大きなインパクトを与えている。
聖堂の建物自体は白い石で造られていて、黄金の円蓋とのコントラストが美しい。この「白い石」の正体は石灰岩で、クリャジマ川流域からオカ川中流にかけて豊富に産出する。石材に乏しいロシアでは貴重な資源であり、ウラジーミルやスーズダリ、それに初期のモスクワでは建築資材として盛んに用いられている(モスクワ・クレムリの城壁も、現在のレンガに改装されるまでは白石造りであった)。よく見ると鐘楼の部分は聖堂に比べて異様なほどに色白で、おそらく最近になってから修復・整備を受けたのだろう。
建物の表面で興味深いのが、そこかしこに見られる石の彫像。例えば入り口の上部など、アーチ型に植物文様が刻み込まれている。とても石に彫られたとは思えないほど手の込んだものだ。窓の周りも様々な石彫で飾られているが、こちらには様々な獣(獅子であろうか)の顔、あるいはグリフィンなどを見ることができる。これらの動植物文様は、もちろんルーシの伝統的な世界観を表すものと考えられるし、様々な怪獣の姿はキリスト教以前の異教神話を思わせる。姿形は違えど、西欧の教会に見えるガーゴイルたちの兄弟分にあたるものだろうか。ウスペンスキー聖堂は「現役の」教会であり、観光客ばかりでなく多くの敬虔な正教信者が礼拝に訪れている。そうした人々に向かって手を差し伸べる物乞いが多いことも、他の由緒ある教会と変わらぬ光景である。
聖堂の内部は薄暗く、巨大な柱が林立しているため、建物の大きさのわりにそれほど広々とした感じはしない。しかし、その厳粛・荘厳な雰囲気はやはり圧倒的である。天井や壁面を飾るフレスコ画は、数世紀に渡ってロウソクの煙でいぶされたせいか、ほとんどが黒ずんでいて識別しがたい。これが却って、ウスペンスキーの長い歴史が持つ年輪の如きものを感じさせている。入り口近くに置かれた説明板によれば、聖堂内には様々な時代の壁画が残り、その中にはロシア中世の有名な画家アンドレイ・ルブリョフのものも含まれているという。
もちろん、ロシアの教会にはお定まりのイコンも数多く飾られている。一般信徒の礼拝所と聖室とを隔てるイコノスタスは非常に背が高く、黄金に輝いて見る者を圧倒する。とりわけ日曜の礼拝では、中央のシャンデリアに灯が入って金色のイコノスタスに反射し、美しいきらめきを見せてくれる。はるか上方、聖堂中央の円蓋を見上げると、細長い窓から明かりが差し込んでおり、僧侶たちが唱和する典礼の聖歌と相まって、異様なまでに荘厳な雰囲気を醸し出していた。聖堂の「高さ」が与える印象は、特に圧倒的なものである。宗教儀礼のための効果を考えるなら、非常に完成された空間だと言うことができるだろう。ちなみにイコノスタスは18世紀の作で、バロック風の聖人画は他の絵画や調度に比べて新しいスタイルのものだが、全体の調和を乱していないのは流石である。
また、ウスペンスキー聖堂は様々な歴史的人物が眠る廟所でもある。例えば、イコノスタス全面の左側に置かれているのはこの聖堂の創建者アンドレイ・ボゴリュープスキー公の棺。アンドレイは列聖されているので、熱心な信者は遺骸の顔の部分に口づけをする。もちろん、その部分はガラスで覆われているから直接口づけするわけではないのだが、よく見ると顔にかけられた布が盛り上がっており、生々しい印象を受ける。キリスト教世界における聖遺物信仰の現場を垣間見た思いである。ちなみにアンドレイ公の遺骸は研究者の調査を受け、その身体的特徴や最期の様子(家臣の陰謀により闘死)が確認された他、有名な人類学者ゲラシモフは頭蓋骨からアンドレイの風貌を再現している。
聖堂の中央付近、柱の間にも2つの棺が置かれている。1つは有名なアレクサンドル・ネフスキーのものだが、ネフスキーの遺骸は同じウラジーミルでもロジェストヴェンスキー修道院で埋葬された上、後にピョートル大帝の命令でサンクトペテルブルクへと移されたように記憶している。おそらく、ここにあるのは棺だけなのだろう。もう一つの棺は、フセヴォロド大巣公の息子でモンゴル襲来時のウラジーミル大公ユーリー・フセヴォロドヴィチのもの。すなわちネフスキーの伯父にあたる人物である。ユーリー大公は兵を集めるべくウラジーミルを離れてシチ川河畔に在陣中、バトゥの軍勢に急襲されて戦死した。後に主教キリルが首のない大公の遺骸を見つけ、埋葬したという。アレクサンドル・ネフスキーもユーリー大公も正教会によって列聖されているから、棺の枕元にあたる部分にはイコンが置かれていた。
この他にも、聖堂内部には壁面に埋め込まれるような形で公一族の棺が安置されている。例えばアンドレイ・ボゴリュープスキーの子供たち、フセヴォロド大巣公の息子で先に触れたユーリー大公の兄コンスタンチンなど。それから、ユーリーの妻子や当時の主教の棺もある。1238年、モンゴル軍の襲来によって命を落とした人々である。ウスペンスキーの壁は、その悲劇の目撃者となったのだろうか。
ウスペンスキー聖堂を見学しての感想は、素晴らしいの一言に尽きる。その歴史的な意味合いといい、また建築物自体の価値といい、まさしく一流のものである。ウラジーミル大公国の歴史を体現した聖堂、と表現することができるだろうか。もしも古ルーシの空気に触れたければ、モスクワをパスしてでもウラジーミルを訪問し、ウスペンスキー聖堂を見ることをお勧めする。それだけの価値を持つ聖堂なのである。
ウスペンスキー聖堂全景…と言いたいところだが、対象が大きすぎるのと撮影者が下手くそなために鐘楼までは写りきらなかった。(03.08.15)
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