ドミトリエフスキー聖堂 付、ロジェストヴェンスキー修道院
ウスペンスキー聖堂と並び、中世ウラジーミルを代表する歴史的建築物の1つがドミトリエフスキー聖堂である。2つの聖堂は共にウラジーミル中心部に位置しているのだが、外見がかなり似通っている上にドミトリエフスキーの方が小振りで、観光客には見過ごされがちかもしれない。しかし、この聖堂にも足を運んで見るべきものがあることはもちろんである。
ドミトリエフスキー聖堂を建設したのは、12世紀後半から13世紀初頭にかけてウラジーミルを支配したフセヴォロド大公である。フセヴォロドはルーシ全土に威を振るい、また多くの子供に恵まれたため大巣公の通り名で知られている。ちなみに、フセヴォロド大巣公はウスペンスキー聖堂を築いたアンドレイ・ボゴリュープスキーの弟で、2人の父が北東ルーシの初代支配者ユーリー・ドルゴルーキーなのである。
ドミトリエフスキー聖堂の建設工事は、1194年から97年にかけて行われた。日本ではちょうど源平の騒乱が終結した時期にあたるわけだ。フセヴォロド大巣公は「ドミトリー」という洗礼名を持っており、自らの守護聖人であるドミトリー・ソルンスキー(テッサロニケのデメトリオス)に捧げてこの聖堂を建設したことになる。また『スラヴ百科事典』によると、もともとドミトリエフスキー聖堂はフセヴォロドの居館の一部をなしていたという。ウスペンスキー聖堂がウラジーミルを代表する公的な聖所であったのに対し、ドミトリエフスキーの方は公の私的な礼拝所という性格を持っていたのかもしれない。
聖堂は白石造りに黄金の丸屋根という造りで、ウスペンスキー聖堂の外観と共通点が多い。ただし、そのサイズはかなり小さく、円蓋の数もウスペンスキーが5つを数えているのに対してドミトリエフスキーは中央に1つだけの単頂型スタイルとなっている。もっとも、聖堂の規模を考えると、この方がバランスをとれていると言えそうだ。また、ウスペンスキーのような鐘楼は付設されていない。
残念ながら、我々が訪れたときはちょうど修復の最中で、丸屋根を含む聖堂の上部は全て足場で覆われてしまっていた。もちろんこうした作業の必要性は分かるのだが、不運なことではあった。ただし旅行案内等の写真を見ると、ドミトリエフスキー聖堂の丸屋根は玉ねぎ型の膨らみを持たず、慎ましやかな半円形にとどまっている。ウスペンスキーと同じように、古態をよく残した建築スタイルなのだろう。
聖堂の内部は、ビザンツから招かれた12世紀の画家によるフレスコ画で飾られている…らしい。らしい、というのは、中に入って確認することができなかったから。聖堂内は一般に公開されておらず、事前の申し込みが必要である由。ガイドブックによれば、「最後の審判」「アブラハムの懐」といったテーマのフレスコが有名であるようなのだが。
その代わり、ドミトリエフスキー聖堂は外から眺めるだけでも充分に価値がある。白石造りの外壁が、数多くの彫刻によって飾られているからである。ウスペンスキー聖堂にも同じような装飾は施されていたが、ドミトリエフスキーの方が小さい分だけ彫刻の占める割合が多く、内容にも極めて興味深いものがある。その一部を写真で見ていただこうと思う。
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まず最初は聖堂の南ファサード、右側の窓を撮影した写真である。窓の周囲は様々な彫刻で装飾されている。この写真ではちょっとよく分からないが、窓の上部には腰掛けた人物の像が刻み込まれている。人物の正体はアレクサンドロス大王で、この彫刻全体が「アレクサンドロスの昇天」を主題にしたものだと言われている(実際のところ、旅行案内書の説明を読まなければ気づかなかったところだが)。中世のキリスト教世界における「アレクサンドロス伝説」の広まりは、ここ北東ルーシにも及んでいたものか。また、アレクサンドロスの周囲や下方(窓の周り)には鳥、獣、幻想的な生き物、騎乗する人物、そして植物といった文様がびっしりと刻み込まれている。
そして次の写真は、窓の下方に刻みつけられた彫刻群を写したもの。ご覧のように、列柱状の飾りの間にキリスト教の聖人と動植物の文様、そして柱の下を不可思議な生き物が支えるという構図になっている。ここには、キリスト教とそれ以前に存在した異教的世界観の奇妙な混交をはっきりと見てとることができる。例えば枝を四方に伸ばした木という構図は、樹木の生育するエネルギーを崇拝の対象とした異教的な価値観を表すと言われている。グリフィンや鳳凰に似た鳥なども、古い神話を代表するものだろう。こうした意匠に混ざって後頭部に後光をかざした聖人たちが描かれているのは、却って場違いな印象を受けるほどである(本当はキリスト教の聖堂のはずなのだが!)。
こうした図像の世界は、中世ロシア人の観念を今に伝えるものとして非常に興味深い。ロシア史上、表面的なキリスト教化と伝統的な異教信仰との併存現象は「二重信仰」という言葉で表され、ロシア・キリスト教の特殊性を説明する際にも引用されることが多い。しかし、ドミトリエフスキー聖堂の壁にはあまりにもあからさまな異教神話の要素が現れており、人々が権力者の目を盗んで古い信仰を守り続けたという隠れキリシタン的なイメージとはかけ離れている。それどころか、教会の壁そのものが異教的な芸術に場を提供しているのである。当時は、権力者や聖職者でさえもこうした世界観を無理なく受け入れていたのだろうか。
もっとも、(ロシアに限らず)キリスト教自体が世界中に広まっていく中で既存の世界観を取り入れ、様々な「変質」を被っていることは周知の事実である(例えばクリスマスの儀礼のごとき)。ドミトリエフスキーの彫刻は、キリスト教がロシアに順応していく過程を物語っているのかもしれない。
また、ウラジーミル地方の古い教会ではこうした彫刻による装飾をいくつか目にしたのだが、これが北東ルーシ独自の伝統なのか、それともかつてはどの地方でも普遍的に見られた現象なのかははっきりしない。12〜13世紀の建築物自体が、他の地域ではあまり残っていないからである。いずれにせよ、豊富な石材に恵まれた北東ルーシで、これほど見事な彫刻を残すだけの石職人が育っていたことだけは確かな事実であろう。〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓
最後に、ウスペンスキー・ドミトリエフスキーの両聖堂近く、ウラジーミルの中心部に位置するロジェストヴェンスキー修道院についても少し触れておきたい。この修道院の創設は1200年前後とはっきりしないが、かつてはロシアで最も格式の高い修道院であり、1263年にはアレクサンドル・ネフスキーがここに葬られたことでも知られている。
現在、この修道院は現役の宗教施設として活動を行っており、中に入ることは出来なかった。ガイドブックを見ても詳しい情報が載っておらず、観光客に一般公開しているわけではないのだろう。修道院の敷地は頑丈なレンガの塀と塔で囲まれ、南側はクリャジマ川に面する急な斜面となっている。街の真ん中にあって、何となく城の本丸のごとき印象を受ける修道院だが、実際に軍事的な機能を期待されていたものかどうかはよく分からない。
修道院を囲むレンガ塀の一角にはプレートが埋め込まれ、「1263年の11月、この修道院でアレクサンドル・ヤロスラヴィチ・ネフスキーが埋葬された」と書かれている。また、修道院脇の広場ではネフスキー公の胸像を見ることができる。英雄・ネフスキーと深い関わりを持っていることが、修道院にとっても自慢の1つなのだろう。残念ながら塀の中に入ることができなかったため、それ以上の詳しい観察を行うことはできなかった。(03.09.12)
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