黄金の門

 ウラジーミルの西端、かつて「ノーヴイ・ゴロド」と呼ばれた市域(街の見取り図についてはこちらを参照)に、黄金の門と呼ばれる門が残っている。歴史に深い興味をお持ちの方であれば、もしかしたら「黄金の門」という名前に聞き覚えがあるかもしれない。というのも、キリスト教世界に多大な影響を与えた2つの大都市、聖地エルサレムコンスタンティノープルは、この同じ名を持つ門によって飾られていたからである。
 エルサレムの黄金の門は、街の東側に位置しており、イエス・キリストもこの門をくぐってエルサレムに入城したと伝えられている。そのため門は神聖なものとして特別視され、年に一度の祭日にしか開けられることはなかったという。またコンスタンティノープルの黄金の門は5世紀に建設されたもので、ビザンツ帝国の皇帝たちが首都へと凱旋する際に使われた、やはり特別なものであった。古来より黄金は高貴さや純粋性などを象徴するもので、都市の「顔」である正門に特別な権威を与えるため、このような名が選ばれたのだろう。
 そして、黄金の門はルーシの首都たるキエフにも設けられた。年代記の記録によれば、ヤロスラフ賢公は1037年からキエフ市の大規模な増築工事を行っているが、その正門となったのが黄金の門である。キエフ版「黄金の門」は、門上に聖母告知教会を載せた独特のスタイルで、その後の戦乱により原形をとどめぬほど破壊されたものの、現在は再建されて観光名所の1つになっている。長大な土塁が街を囲む中、黄金の門は堅固な石造りとなっており、同時代人の目にはこの上なく壮麗なものに映ったことだろう。また、エルサレム・コンスタンティノープルの正門を「投影」した黄金の門は、これら2都市の持つ権威をキエフに継承させるという、シンボリックな意味合いを持つものであった。さらにこのときのキエフは、コンスタンティノープル第一の寺院である聖ソフィア教会と同名の教会をも建設している。

 そういうわけで、ウラジーミルの「黄金の門」は、キエフの弟分だと言えるかもしれない。その目指すところもまた同じようなものである。つまり、聖都エルサレムやコンスタンティノープル、そして「ルーシの街々の母」キエフが持つ権威を、シンボリックな形で受け継ぐことに他ならない。
 一代のうちにウラジーミル市をルーシ有数の大都市へと育て上げたアンドレイ・ボゴリュープスキー公については、先に少し詳しく触れておいた(こちらを参照)。ルーシの伝統的な権威を体現する首都・キエフに対し、公然と反旗をひるがえした梟雄アンドレイ公にとって、新たな拠点であるウラジーミルのステータスを高めることは急務である。そのためアンドレイは、豪壮華麗なウスペンスキー聖堂を築いて聖ソフィアに対抗すると共に、「黄金の門」によって、キエフとそれに先行するエルサレム・コンスタンティノープルの権威を吸収しようと試みたのであろう。

 現在残っている黄金の門は、創建当時のものと比べて大幅に形が変わってしまっている。老朽化に加え、1778年7月にウラジーミルを襲った大火によって門の建築物も損害を被った後、大規模な修復が行われたためである。当時は歴史遺産を保存するという観念に乏しかったのだろうが、もったいない話ではある。
 門の本体は、ウラジーミル地方ではおなじみの白石(石灰岩)づくり。門の上に教会が設けられるというスタイルは、キエフの「黄金の門」のそれを踏襲しており、教会自体は現在も残されている。小振りな丸屋根を1つだけ持つ、質素で小さな教会である。ただし、その外観は大改修によって大きく手が加えられている。
 13世紀の再現ディオラマを見ると、当時はこの教会の前に展望台のような空間があったはずなのだが、現在はそれがない。門上の教会が増設を経て大型化し、さらに門の上部全体が屋根で覆われてしまったためらしい。当時、この「展望台」は街の外を見張るための監視所であり、また戦時には敵の攻撃を撃退する櫓台という役割を果たしていた。(その際、教会もまた防御施設として利用されたことだろう)。1238年2月にモンゴル軍がウラジーミルを攻撃したとき、実際に街の人々が黄金の門で防戦に務めたという記録が残っている。また、街を守っていたフセヴォロドとムスチスラフの両公に対し、寄せ手のモンゴル軍が、すでに捕虜としていた彼らの兄弟・ウラジーミルの姿を示して見せたのも、やはりこの門での出来事であった。
 その他、黄金の門には様々な改修が加えられているが、最も大きな変化は左右の土塁の撤去であろう。かつてのウラジーミルは、(ルーシの多くの街と同じく)街全体が土の城壁で囲まれており、その何か所かに「黄金の門」を初めとする門が設けられていた。しかし時代が下ると城壁自体が撤去され、それに伴って門も多くが取り壊されてしまった。ただ、黄金の門だけは往時を物語る遺物として残されたわけだ。門の建築物が石でできていたため、取り壊しが難しかったからかもしれない。今日の黄金の門は、街のメインストリート・大モスクワ通りの上に、まるで凱旋門のごとく屹立している(ただ、道幅が狭いのと周囲がゴチャゴチャ建て込んでいるのとで、凱旋門のような壮大さは感じられないが)。
 もっとも、かつての城壁が完全に消滅したわけではない。街の外から見て黄金の門の右手には、今も土塁の一部が残されている。道路を通すため門とは切り離されており、ちょっと見ただけでは昔の市壁とは分からないくらいだ。もちろん、土塁の上に設けられていたはずの防御施設(屋根と矢狭間を備えた丸太組みの回廊)も今はない。その代わり、横幅も高さもかなりの規模を残している。何の変哲もない盛り土ではあるが、これもまた大ウラジーミルの偉容を今に伝える遺物なのである。こうした土塁は、これ以外にも市中数カ所に残されているとのこと。

 我々が訪れたとき、黄金の門ではちょうど修復作業を行っており、たくさんの足場が全体を覆っていた。それでも、幸い門の中には入ることができた。現在、黄金の門の内部は軍事博物館として利用されている。
 いかにも元の城門らしい、狭くて急な階段を登っていくと、すぐに博物館のゾーンに出る。これは門上の教会にあたる部分らしいが、規模としてはとても小さく、係りのおばちゃんが1人いるばかりである。
 まずは中央の展示ホール、いきなり大型のディオラマがお出迎え。先にも触れた、13世紀の「黄金の門」を再現したもので、モンゴル軍との戦い(1238年)が舞台に選ばれている。城壁の数カ所はすでに突破され、モンゴル兵が真っ黒になって市中になだれ込んでいるが、門の上では守備兵が必死の防戦を続けている。眼下に迫る敵兵に弓を射かけ、あるいは丸太を投げ落とす。守備隊の中に1人、黄金の甲冑を身につけた指揮官らしい人物がいるが、これは守将フセヴォロド公なのかもしれない。背景の書き割りには炎上する街などが描かれ、凄まじいばかりである。一方、手前のモンゴル軍の陣地では大型の攻城兵器が気になった。どう使うものかよく分からなかったからである(丸太を飛ばす機械?)。
 同じホールでは、軍事に関するいくつかの展示物を見ることができる。例えば中世の鎖鎧や矛、弓、鉄砲といった武器の類。矢の中には非常に巨大なサイズのものがあったのだが、これは要塞に装備された機械式の弓に使われたのだろうか。もっと時代が下って、1812年戦役に関する展示などもある。興味深かったのが、敗走するナポレオン軍を描いた陶器の飾り皿。フランス軍の兵士が、まるで古代ギリシアの戦士のような形で描写されている(もちろん裸姿)。当時の上流階級における古典趣味が現れているのだろう。
 教会建築を利用しているためか、ホールの周囲には小さな回廊が巡らされており、ここにも展示品が並んでいる。大祖国戦争、すなわち独ソ戦を戦ったウラジーミル出身の軍人たちがテーマである。展示されているのは写真や軍服その他の持ち物、兵器、ポスターなど。戦時中のポスターは時代順に並んでおり、戦局の推移が見える趣向になっているのが面白い。


修復作業中の「黄金の門」。右手に土塁の一部が残されている。

(03.11.03)


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