ボゴリューボヴォ ウラジーミルから西へ10キロメートルほど離れたところに、ボゴリューボヴォと呼ばれる小さな村がある。郊外というには少し離れすぎているかもしれないが、電車を使えば意外と簡単に行けてしまう。ウラジーミルに来たならば、ここも是非訪れておきたい。かつて、アンドレイ・ボゴリュープスキー公が居館を構えたのがこの場所である。
伝説によれば、アンドレイ公が南ロシアのヴィシェゴロドから聖母のイコンを携えてウラジーミルへと向かう途中、この場所でイコンを乗せた馬が動かなくなったのだという。それで、この場所は神に選ばれたということになり、アンドレイ公も好んでここに滞在した。「ボゴリューボヴォ」という地名も、「神(ボーフ)に愛された(リュビーチ)」(もしくは「神を愛する」かもしれない)の謂である。
しかし、折角育て上げた新首都・ウラジーミルを離れ、アンドレイがこの地に滞在することを好んだのは何故なのか。確かに、ネルリ・クリャジマ両河川の合流点に近いボゴリューボヴォは、水運という見地から見ても要所の1つである。しかしそれなら、監視のための哨所を設ければいいだけの話であり、公の居館が置かれたの理由の説明にはならない。興味深いのは、アンドレイ公の父・ユーリー手長公も、スーズダリ郊外のキデクシャに館を構えていたという事実である。そしてキデクシャの項でも書いた通り、当時の支配者は自らの権力を強化する目的で大都市を離れる志向があったのかもしれない。
現在のボゴリューボヴォは、ウラジーミルの市街地から遠くはなれた一小村にすぎない。鉄道の駅もウラジーミルに比べればちっぽけなもので、がらんとした寂しい駅舎があるきりである。この駅から目的地のボゴリューボフ修道院まではすぐ近く、美しい青い屋根と白い壁を持つ聖堂を目指して歩けばよい。修道院は沼に面した小さな丘の上にあり、辺りにはのどかな農村風景が広がっていた。子供は遊び回り、大人は畑仕事に精を出しているが、強い日射しの中ビキニの水着姿で働いていたおばさんの姿が記憶に残っている。実は、ロシアではそれほど珍しい光景でもないのだが。
丘の上の方に回り込み、巨大な鐘楼兼正門をくぐって修道院の中に入る。この日は何かの祭日だったらしく、ずっと鐘が鳴らされ、多くの参拝者が集まっていた。ふつうは敷地の中心部にある青屋根の主聖堂を目指すのだろうが、古い歴史に興味がある者としては、まずはその裏手にある小さな教会を見ないわけにはいかない。かつてアンドレイ・ボゴリュープスキー公が住んだ館の一部は、ここに残されているからである。
左に示したものが、主聖堂裏の小さな教会の写真である。「小さい」といっても主聖堂に比較すればの話で、建物自体はかなり大きい。そしてその一部、アーチ左の一角だけ色が異なっているのがお分かりいただけるだろうか。他の部分に比べて黒ずんで見えるこの一角こそ、旧アンドレイ・ボゴリュープスキー邸に他ならない。それ以外の白くてきれいな建物は、後からつけ加えられたという感じである。右の写真は近くから撮ったもので、こちらの方だと昔の面影がより分かりやすい。
ウラジーミルの王者アンドレイ・ボゴリュープスキー公は、この館からルーシ全土に号令し、そしてこの館で死んだ。しかも、それは尋常な死ではない。おのれの家臣たちに殺されたのである。
年代記によれば、アンドレイが家臣の1人を処刑するように命じたのに対し、その家臣の兄弟が仲間と語らって公を暗殺したのだという。しかしこの陰謀は20人もの人間を集めた他、アンドレイの後妻が関わっていたという伝説もあるから、事件にはもっと複雑な舞台裏があったのかもしれない。また、「鍵番」と呼ばれる公の近臣も陰謀団の一員だった。
1174年6月29日、暗殺者たちは度胸をつけるため浴びるほど酒を飲んだ後でアンドレイの館に侵入、公の寝室となっている2階の間に押し入った。アンドレイはこのとき60を越えていたはずだが、多年戦場で鍛えた力は未だ衰えず、素手で侵入者に立ち向かう(公の剣は鍵番に隠されていた)。長時間の格闘の末、暗殺者たちは公を殺害したと思い込み、同士討ちで傷ついた仲間を助けて引き上げた。しかしアンドレイはまだ生きていたばかりか、怒りにかられて彼らの後を追いかけようとさえしている。結果的には、この血気がアンドレイの命を縮めることになった。公の声を聞きつけて戻ってきた暗殺者たちは、階段の下で負傷したアンドレイを見つけ、とどめを刺したのである。
同時代の記録に「専制的」と書かれるほど絶大な権力を誇ったアンドレイの死は、一転して極端な無秩序状態を喚起するものであった。ボゴリューボヴォとウラジーミルの住民は、数日に渡って公とその役人の館を略奪し、その間アンドレイの遺体は教会の玄関口に放置されていたという。しかし騒擾が収まると、アンドレイの遺骸はウラジーミルに運ばれ、ウスペンスキー聖堂の中に安置されている。後に、アンドレイ公はロシア正教会から列聖されるに至った。
いずれにせよ、アンドレイ・ボゴリュープスキーの悲劇的な最期は、この特異な人物の人生をより陰惨に、かつ劇的に彩るものだったと言えるのかもしれない。
写真でご覧の通り、旧アンドレイ邸は白石(石灰岩)で組み立てられ、表面を列柱状の彫刻が飾るという、ウラジーミル地方に典型的な建築スタイルを持っている。サイズは、北東ルーシの覇者の居館としては意外なくらいに小さい。しかし現在残っているのは公の寝室に該当する部分だけで、かつてはこれにいろいろな建築物が付属していたのかもしれない。何より、当時としては石造りであること自体が権威の象徴だったはずである。
館への入り口は、写真に写っている側から見て裏手にあたる。非常に小さく狭く、かつ目立たない入り口である。その前には夫婦らしい男女がいて、女性の方は建物の中に向かって何やら祈りを捧げていたのだが、すぐにその理由が分かった。入り口から入って正面はすぐに突き当たり、右手には上りの螺旋階段という配置になっていて、その突き当たり部分にイコンが置かれていたのである。これはおそらく、アンドレイ・ボゴリュープスキーの殺害現場なのであろう。アンドレイは階段を下りた場所で殺されたという、年代記の記録とも一致する。
もちろん、この出来事は今から800年以上も前の歴史的事件にすぎない。しかしながら、年代記に記された事件のまさに「現場」にいるのだという意識が、奇妙なリアリティを持って迫って来たことは事実である。巨大な石の柱に支えられた狭い螺旋階段を上る中、そうした意識はますます強いものになった。アンドレイを仕留め損ねたことを知った家臣たちは、蝋燭に灯をともして公の血痕を見つけ、跡をつけたのだという。重苦しい石に囲まれた階段では、今にも当時の状況がよみがえりそうな雰囲気を漂わせている。全身を朱に染め、反逆者たちへの憤怒に我を忘れたアンドレイが、ゆっくりとこの階段を下りてくる…
階段を上り切り、背の低いアーチ型の入り口をくぐると2部屋からなる2階の間に出る。当時、公の寝室として使われていた場所である。2階が居住区間であるのは、やはり寒さ対策なのだろうか。ちなみにロシアの伝統建築では、農家であってもやはり居間を2階にあたる部分に作り、半地下式の1階は倉庫などにあてるのが一般的だったらしい。
石格子が設けられた大きな窓のおかげで、室内は意外に明るい。(左の写真は、その窓を建物の外から見たもの)。おかげで、内壁に描かれたフレスコ画がよく見える。最初の部屋では聖母とキリストがテーマだったが、残念ながら剥がれた部分も多かった。
奥の部屋には、アンドレイ公の暗殺を描いたフレスコ画が、比較的きれいに残っている。ロシアの古い宗教画にはよくあることとて、リアリティなどを追求した絵ではない。横たわったアンドレイ公は、表情も変えずに全身を刃物で突き刺されている。もちろんこれは、彼が列聖された後に描かれたものであるはずだ。アンドレイ自身がこの部屋を使っていた当時、壁にはどのような絵が描かれていたのか。
ところで、最初に載せた2枚の写真を見てもらえるとお分かりのように、アンドレイ邸には教会の建物が付設されている。そして、奥の部屋と教会堂を隔てる壁には窓が開けられていて、教会の内部空間を見下ろせるような構造になっている。もしもアンドレイ在世当時からこの位置関係が変わっていないとすると、彼は自分の居住空間にいながらにして、教会での儀式を見守っていたのだろうか。
一旦公の館を出てから、改めてその教会堂にも入ってみた。中はかなりがらんとしていて、壁のフレスコも剥がれていた。興味深いのは、地面の一部が掘り返され、昔の礎石や地表の一部が公開されていたこと。アンドレイ時代と比べると、1,5メートルほども地面が堆積している由である。また、かつての教会を復元した図面も示されていた。してみると、やはりこの教会は当時から公の館に付設されていたのだろうか。一般向けの教会ではなく、公の私的な礼拝所であったのかもしれない。(03.11.28)
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