ボゴリューボヴォ2 付、ポクロフ・ナ・ネルリ教会

 個人的にはアンドレイの館でお腹一杯という感もあったのだが、もちろん修道院の中心にあるメインの聖堂を見逃してよいという法はない。この主聖堂は大きな丸屋根を中心に配し、小型の丸屋根が4つそれを取り巻くという、ロシアの大型教会建築にはよく見られる伝統的なスタイルである。丸屋根はどれも玉ねぎ型に丸々と膨らみ、鮮やかな青色が日光を受けて照り輝いている。しかし、修道院で売っていたパンフレットの写真では、同じ丸屋根がもっとくすんで写っている。おそらく、最近になって塗り直したのだろう。聖堂の外壁も色あくまで白く、やはりペンキが塗られたばかりのものとみえる。
 一方で、建物の内部はいまだ修復作業の最中らしい。内壁のフレスコ画は消えている部分が多く、とりわけ入り口の近くではほとんど残っていない。クーポル(ドーム型の丸屋根)内と奥の一部だけが修復をすませており、絵もきれいに描かれている。どちらかといえば、この聖堂の聖像画は、ヨーロッパの影響を受けた近代的なものが多いという印象を受けた。ひとくちに「ロシアの教会芸術」と言っても、そのスタイルは場所によって様々なもので、伝統的な聖像画オンリーの教会もあれば、近代的な西欧絵画の影響を色濃く受けた宗教画が内壁を飾り立てている聖堂も珍しくない。ロシア教会の内装は、意外なくらい多種多様なのである。
 それから、聖堂の中でも重要な位置を占めるイコノスタスだが、これまた修復の途中で、まだ木組みの仮設置状態である。普段見慣れている色鮮やかで豪壮華麗なものと違い、白木のイコノスタスというのは、どうにも勢いのない感じだった。

 ところで、この日(7月1日?)は何かの祭日であったらしく、たくさんの人々が修道院に参拝に来ていた。屋外に机を並べ、黄色っぽい色の飲み物を参拝客に振る舞っている人もいる。ロシア正教会では、特定の祭日と結びついた食べ物や飲み物が多いから、これもその1つなのかもしれない。どういうものか知りたくはあったが、そこは異教徒の悲しさ、信心深い人々に混ざって一杯もらうだけの根性はなかった。
 また、修道院の建物の周りはちょっとした縁日状態で、イコンだの聖歌のカセットだのが数多く売られていた。目についたのは、皇帝関係のものが多いこと。とりわけ、最後の皇帝ニコライ2世とその家族のイコンが目立っていた。周知のごとく、ニコライ2世一家はロシア正教会によって列聖されているから、イコンになっていても不思議はないわけだ。正直なところ、近代的な軍服を身にまとったまま伝統的な画法のイコンに描かれたニコライ2世の姿は、少し奇異な感じがした。

 何故ボゴリューボヴォ修道院でニコライ2世なのか?修道院で買い求めたパンフレットによれば、ニコライ2世が殺害された日は、聖アンドレイ公の追悼の日とちょうど重なっているらしい。同じ君主出身の聖人ということで、余計に関連性を持たされているのかもしれない。
 ただ、このパンフレットを読んでいて気になったのは、アンドレイ公とニコライ2世が共に「ユダヤ人の手によって」殺害された、と書かれていたことである。確かに、アンドレイ暗殺にユダヤ人が関与していた形跡はあるし、ロシア革命でも重要な役割を果たしたユダヤ人は多い。しかし当然のことながら、これらの歴史的事件がユダヤ人「だけ」によって引き起こされたり、あるいは彼らがユダヤ人「だから」陰謀を企んだわけではない。ところがこのパンフレットの記述は、「主殺し」という昔からあるアンチユダヤイメージを想起させ、差別を煽りかねないものになっている。修道院が公式に発売している印刷物にしては、かなり問題ありな内容と言うしかない。ロシアにおける反ユダヤ主義の根深さについて、考えさせられる話ではある。

 ボゴリューボフ修道院訪問記の終わりにあたって、修道院の向かいに立っていた石碑について少し触れておきたい。これは、大祖国戦争(第2次世界大戦の独ソ戦)戦没者の慰霊碑である。ボゴリューボヴォから出征して還らなかった人々に捧げられたもので、この日も石碑の前には赤いバラが供えられていた。ロシアでは、この種の慰霊碑はあらゆる場所にあると言ってよく、戦争による犠牲の大きさを物語っている。ただしロシアの場合、慰霊と同時に「国を守った英雄を讃える」という雰囲気が強く、日本のように「反戦」一辺倒ではないように感じられる。この辺りは、勝ち組と負け組の差なんだろうか。

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 このボゴリューボフ修道院から歩いていけるところに、ポクロフ・ナ・ネルリ教会と呼ばれる教会がある。「ポクロフ」というのは「聖母の庇護」を意味する言葉で、ロシアにはポクロフに捧げられた教会が数多く存在しているが、中でもこのポクロフ・ナ・ネルリは中世ロシア建築の傑作として名高い。もちろん、折角ボゴリューボヴォまで来たからには、この教会にも立ち寄ってみた。
 ポクロフ・ナ・ネルリ教会を建てさせたのは、北東ルーシ建築史上の大立者アンドレイ・ボゴリュープスキー公である。アンドレイは、息子イジャスラフ・アンドレーエヴィチ公の死(1165年)を悼み、ネルリ川に面した地にこの教会を造らせたのだという。丸屋根を1つだけ持つ小振りな建築物ながら、その優雅な姿はつとに有名で、「ロシア建築の白鳥」と言われている…と、『地球の歩き方』には書いてあった。

 ボゴリューボヴォからポクロフ・ナ・ネルリ教会までは、草っぱらを横切って2キロメートルほど歩く。こういう「何にも使われていない土地」がやたらに多いのは、地面がありあまっているロシアならではだろう。この野原を、どう見ても地元人としか思えない格好の集団が、ポクロフ教会の方を指して歩いていく。どうやら、教会は観光客だけに知られたポイントというわけでもないらしい。
 教会に着いてみて、その理由が分かった。たくさんの人々が、教会の前面にある細長い池で遊んでいるのである。おそらく、反対側にあるネルリ川で泳いでいた人も多いと思う。家族連れや子供の姿も多く、日本の海水浴場に似た賑わいがあった。ロシア人は夏の暑さから逃れるため水浴びを好むことが多く、中には公園の噴水に入ってしまう人もいるくらいだから、別に珍しい光景だったわけではない。ただ、閑静な「史跡」という先入観を持って行ったもので、ちょっと意外だったことも確か。『地球の歩き方』に載っていた、取り澄ましたような教会の写真とはまるで違う印象である。地元の人々には夏の憩いの場として親しまれているようだ。

 先にも書いたように、教会自体は小柄で瀟洒なスタイルを持ち、白石造りの建物が青空に映えて美しい。ドミトリエフスキー聖堂ほどではないが、外壁には彫刻による飾りが施されている。玉座に座った人物、それに獅子に似た動物などで、主題は他の聖堂のそれと似通っているようだ。
 ちょうどこの日は、教会の中で礼拝が行われていた。軍人らしき制服を着た人が多く、もしかするとどこかの部隊や軍関係の学校から集団でやって来たのかもしれない。もともと小さな教会である上、柱のせいで内部は非常に狭く、たくさんの人が詰めかけると中に入るのは一苦労だ。しかし上を見上げると、ドーム型の天井(丸屋根の内部)は意外なくらい高くに見えた。また、人々の歌う聖歌が教会内にこだまして非常によく響く。儀式を行う空間としては、非常に優れていると言えるだろう。信者の中に1人、床にひれ伏して祈りを捧げている人がいるのが印象的だった。
 教会の内部も、外壁と同じく白い石でできていて、他の教会に比べるとあまり華やかな感じではなかった。ただし壁面をよく見ると、ほんのわずかに色が残っている。もしかすると、昔はフレスコ画か何かで飾られていたのが、長い歳月の間に剥げ落ちたのかもしれない。正面のイコノスタスには聖母子やキリスト像などが描かれていた。

(03.12.07)


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