ユーリエフ・ポリスキー
ウラジーミルから北西およそ70キロメートルの地点に、ユーリエフ・ポリスキー(「ポリスコイ」と表記される場合もあり)という名の小さな町がある。ロシアの観光ポイントとして名高い古都群、いわゆる「黄金の環」の中でも目立たない町の1つで、ちょっとしたガイドブックだと無視されてしまうことが多い。ウラジーミルやスーズダリ、ヤロスラヴリほどメジャーな存在ではないわけだ。しかし、もしも北東ルーシの歴史に興味がある方なら、ウラジーミルあたりを訪れたついでにここまで足を伸ばしてみることをお勧めする。
ユーリエフ・ポリスキーが都市として成立したのは1152年、有名なユーリー・ドルゴルーキー(手長公)の創建によるものである。もちろん、町の名前もユーリー公から取られたものに他ならない。ロシア史においては、都市に創建者の名を冠する事例は珍しくなく、現に「ユーリエフ」市は他にも存在している。それと区別するため、「ポリスキー」なる形容詞がつけられているわけだ。この地方には一面ポーレ(野原)が広がっているため、「野原のユーリエフ」すなわちユーリエフ・ポリスキーと呼ばれるようになったものらしい。
手長公とその子供たちの時代、北東ルーシではロストフ、スーズダリ、ウラジーミルなどの諸都市が覇権を争う大興亡史を展開したが、その中でユーリエフはそれほど目立った存在ではなかったらしい。小公国の首都として、モンゴル軍の襲来に際しても目立った記録は残らず、後にモスクワ大公国に吸収されるというお定まりのコースを歩んでいく。モスクワ時代のユーリエフは、大公に仕えて功績のあった外国人への下賜の対象となっていた。例えばイヴァン雷帝は、リヴォニア戦争でモスクワを支援したアストラハンのカイブラ汗にユーリエフを与えている。そして雷帝没後のスムータ(動乱)時代、ユーリエフはポーランド軍によって劫略され、長い間そのダメージから立ち直ることができなかった。現在の人口はおよそ2万2千、その長い歴史を除いては取り立ててどうということもない小さな町である。
ウラジーミルからユーリエフ・ポリスキーまでは、一日に何本か出ている路線バスを使った。この日も晴天に恵まれ、広大な草原とその向こうに広がる森林がよく見えた。モスクワ〜ウラジーミル間の大部分が深い森に閉ざされていたのと比べると、明るく開かれた草地が多く、いかにも「ポリスキー(草原の)」という通り名にふさわしい。もっとも、これが人間の営みによる開墾の結果なのか、あるいは太古の昔から草地が森林に優越していたのかはよく分からない。
かくするうちにユーリエフ到着。本当に何もない、ひなびた小さな町である。まずはバスステーションで、ウラジーミルへ戻るための時間割を見てびっくり。まだ昼日中だというのに、もう30分くらいしてから出るやつが今日の最終バスだという。もちろん、ここで取り残されては一夜の宿を探すことさえ難しいし、かといって何もせずに時間をつぶすのももったいなさすぎる。限られた時間内で見学をすますよりないのである。こんなことなら最初からきちんと調べてくるんだった。
ということで、町の見所がつまっているクレムリへと急ぐ。バスステーションの1つ前の停留所でそれらしい土塁が見えたので、場所はあらかじめ見当がついている。途中で越えた小さな川の畔には、色鮮やかな美しい教会が建てられていた。本来ならこちらもゆっくり見学したいのだが、残念、時間が少なすぎる。次回はゆっくりまわりたいものだ。
ユーリエフ・ポリスキーのクレムリは、小さな商店街(一応、町の中心地か?)の向かいに位置している。「クレムリ」と言っても、現在残されているのは草むした土塁ばかりである。幅も高さもかなりの規模だが、長い年月の間に風化したのか、傾斜は非常に緩やかなものになっていた。この土塁でぐるりと囲われた地域が、昔のクレムリ(城塞)にあたっている。
クレムリン内に入ると、まず左手に大きな修道院が見える。頑丈な石塀と見張りの塔で守られた、まことに堅固な造りの修道院である。面白かったのが、長大な塀にかけられている屋根も、塔の上部を飾っている円錐型の屋根も、全て木で葺かれていること。もちろん修復作業の結果なのではあろうが、古いスタイルを残したものと言える。もともとは、モスクワのクレムリンでも城壁や塔の屋根は木製だったのである。
修道院の向こう側には、赤レンガで造られた巨大な教会がそびえ立っている。伝統的な建築様式とは一線を画したスタイルで、その印象には圧倒的なものがあった。ただし、教会としてはすでに使われていないものの如く、内部は荒れ果てていたし、窓は木で打ちつけられていた。
さらにその向こう側にあるのが、お目当てのゲオルギエフスキー聖堂である。もともとこの聖堂は、ユーリエフの創建者ユーリー手長公によって建てられたものだが、1230年にウラジーミル地方を襲った大地震により倒壊したため、ユーリーの孫にあたるスヴャトスラフ・フセヴォロドヴィチ公が建て直した。同時にこれは、モンゴル襲来以前の北東ルーシが残した最後の歴史的遺産とされている。
聖堂の外観は写真に示した通り、この地方に特徴的な白石(石灰岩)によって造られたもので、丸屋根を1つだけ持つ小型の聖堂である。普段それほど多くの観光客が訪れている様子もなく、建物の周りには雑草が生い茂り、白石造りの壁も黒ずんで汚れが目立つ。一見したところ、それほど見栄えのいい教会とは思われない。しかしながら、この聖堂の値打ちを知るためには、建物に近づいて壁をよく見る必要があるだろう。
ウラジーミル地方の教会建築では、その外壁を飾る個性豊かな浮き彫りの彫刻が大きな特色となっている。例えば、ウラジーミルのドミトリエフスキー聖堂などはその代表的な一例と言っていいだろう。しかしそのドミトリエフスキーでも、浮き彫りは窓の周囲などに限られ、聖堂全体を覆っているわけではない。ところがこのゲオルギエフスキー聖堂の彫刻となると、まさに「隈無く」という言葉がぴったり来るほどに、建物の表面全てに及んでいるのである。ドミトリエフスキーが粋な彫り物で肩先なんかを飾った姐御だとすると、ゲオルギエフスキーはさしずめ全身に倶梨伽羅紋紋を纏わせた老侠客といった趣。妙な例えかもしれないが、それほどの迫力を感じたのである。
レリーフのテーマは両聖堂に共通している。すなわち、聖人像などキリスト教をモチーフにした部分と、それ以前から伝わる異教的世界観に沿った部分の奇妙な混交である。これについては、ドミトリエフスキー聖堂の項で触れておいたからここでは繰り返さない。いずれにせよ、こうした遺跡から、中世ロシア人の精神世界の一端を垣間見ることができるだろう。
一方で聖堂の保存状態を見ると、ゲオルギエフスキー聖堂はウラジーミルの聖堂群に比べて大きく見劣りする。ウラジーミルは流石にロシアを代表する観光都市の1つで、史跡は皆よく保存されている(現に修復途中のものをいくつか見かけた)。ウスペンスキー聖堂もドミトリエフスキー聖堂も、白亜の巨体が陽光に輝いて美しく見え、表面の彫刻はまるで彫りたての新品同様。ところが、観光っ気の薄いユーリエフにあるドミトリエフスキー聖堂は、お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない。表面はところどころ黒ずんで汚れているし、浮き彫りは部分的に摩耗している。建築年代はむしろゲオルギエフスキーの方が新しいのに、やたらに古びた印象を受けてしまう。やはり、遺跡は手入れ次第ということなのだろうか。
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折角なので、ゲオルギエフスキー聖堂を飾る浮き彫りの一部を見ていただくことにしよう。
まずは左上の写真、聖堂の入り口を撮影したものである。アーチ型の入り口の上部を植物型の文様が飾り、その中心に戦士の像が描かれている。これこそ、聖堂が捧げられた対象の聖人、聖ゲオルギー(ゲオルギオス)に他ならない。ゲオルギーはロシアでは古くから敬われた聖人の1人で、もともと軍人であったため、戦争に明け暮れた公や貴族によって崇拝の対象とされたのかもしれない。また、この聖堂を最初に建設したユーリー・ドルゴルーキー公が、自分の名の聖人にこの聖堂を捧げた可能性もあるだろう(「ユーリー」は「ゲオルギオス」がロシア風に転訛した名である)。
一方その下の写真に見られるように、明らかにキリスト教以外の神話から題材を取った彫刻があるのも、この聖堂の面白いところ。ギリシア神話のグリフォンに似た怪物、人面の鳥、微妙な表情を浮かべる獅子(だと思う。多分)などなど、異形の者共が教会の壁面に跋扈しているのである。右の写真はやはり聖堂の一角を撮ったものだが、たくさんの聖人画に混じってやはり不思議な生き物の図が見られる。そしていずれの場合も、空いた空間は絡みつくような植物の文様で埋めつくされている。まことに奇妙な構図だと言うより他ない。
今回はゲオルギエフスキー聖堂に絞った紀行文となってしまったが、実際これ以外には見ていないのだから仕方がない。町自体が非常にアクセスし辛く、どうやら宿もないようなので、再訪するのも苦労しそうだ。しかし、じっくり見て回ればまだまだ面白いものはありそうだし、是非また訪れてみたい場所の1つである。(04.01.06)
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