赤の広場

 何を今さら感をものともせず、モスクワの赤の広場である。実際、モスクワのみならずロシアで最もよく知られた名所の1つで、本来ならこのコーナーを始めた後すぐに取り上げてもよかったくらいだ。それが今までずれ込んだのは、ひとえに執筆者の怠慢と気まぐれの結果に他ならない。

 改めて赤の広場を紹介すると、これはモスクワ市の中心部、クレムリンの壁のすぐそばに広がる長方形の広場である。モスクワのクレムリンは、モスクワ川とネグリンナヤ川の合流点に位置する三角形の城塞だが、赤の広場はその内陸側、北東部の壁に面している。まさしくクレムリンのお膝元にある広場と言っていいだろう。
 かつてこの場所には、モスクワ内外の商人たちが集まる市場が開かれていた。1493年のモスクワ大火の後、大公イヴァン3世は防火のためにクレムリン周辺の建物を撤去する命令を出しており、このとき広場の体裁が整ったものと考えられる。その次の世紀、1571年には、モスクワはクリミア・タタールの攻撃によって再び灰燼に帰し、広場は火事の広場と呼ばれるようになった。「赤の広場」という名前が公式な文書に現れるのは、さらに時代が下った1658年のことである。
 モスクワについて書かれた書物では必ずと言っていいほど触れられているのが、赤の広場の「赤」は共産主義とはまったく関係がない、という事実である。ロシア語で「赤」を表す形容詞「クラースヌイкрасный」は、「美しい」を意味する「クラシーヴイкрасивый」と起源を同じくしており、本来はどちらの意味をも持つ言葉であった。従って、もともと「赤の広場」は「美しい広場」と解釈されるべきものだったわけだ。もっともソヴィエト政権の成立後、実際に共産主義のシンボルカラーとしての「赤」イメージが鼓吹されたことは間違いないだろうが。

 ロシア史の中で、赤の広場は様々な事件の目撃者となってきた。広場では皇帝からの布告が読み上げられ、また国事犯が処刑された。ロマノフ朝の初代皇帝ミハイル・ロマノフも、この広場で戴冠式を行っている。そしてソ連時代になると、革命記念日やメーデーなどの時には赤の広場で必ず大規模なデモ行進が行われ、世界中に強い印象を与えた。つまり赤の広場は、モスクワ大公国の昔からソヴィエト時代に至るまで、一貫して政治的な「ハレ」の空間として利用されてきたわけだ。
 現在でも、例えば5月9日の戦勝記念日などでは、赤の広場が公式なパレードの場となっている(ソ連時代ほど派手なものではないが)。また最近では、ポール・マッカートニーのコンサートが開かれたこともあった。「世界に開かれたロシア」を演出する上で、マッカートニーのロシア公演は大きな意味を持っており、その舞台に赤の広場が選ばれたのは偶然ではないはずだ。こういう点、昔も今も広場の使われ方は変わっていないと言える。
 ただし、赤の広場が常に特別な儀式の空間だというわけではない。普段は外国人観光客やらおのぼりさんやらにあふれた、ごくありがちな観光地である。初訪問の方も、変に気負うことなく行ってみるのがいいだろう。

 赤の広場には、どこから入らなくてはならないという決まりはない。ここでは便宜上、北側から広場に入った場合のガイドを想定してみよう。
 この方角から広場に入ろうとすると、赤レンガ製でとてつもなくデカい建物が目の前に立ちふさがる。これこそがロシア国立歴史博物館である。博物館の左手には、2つの尖塔が付いた小さな門があるので、これをくぐって広場に入ろう。ちなみにこの門はヴォスクレセンスキエ門といい、ソ連時代に破壊されたのが1997年になって建て直されたもの。ソ連/ロシアの史跡名物「建てたり壊したり」の一例である。
 門の先に広がっているのは、もう誰が何と言おうと赤の広場である。おそらく、ほとんどの人が心に描いていた通りの「赤の広場」が見られるはずだ。何より、真正面に見えるヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂の存在がでかい。これはかの有名な、「玉ねぎ型」とも「ネギ坊主」とも形容される色とりどりのドームを聳えさせた教会で、赤の広場が映像で紹介される場合には必ずと言っていいほど顔を出している。そして右手の視界をさえぎるのはクレムリンの城壁、その背後には大統領府の丸屋根。左手ではグム(国営百貨店:ГУМ)の巨大な建物が広場の境界をなしており、見る者に大きな視覚的効果を与えている。一目見るだけでお腹一杯になってしまうような光景だ。

 最初に書いたごとく、赤の広場は長方形に広がっており、しかも横幅に比して縦方向が著しく長い。ヴォスクレセンスキエ門から広場に入った場合、正面方向が縦にあたるのだが、実際に歩いてみてもかなりの距離がある。しかし一見そう感じられないのは、向こうの端に見えるヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂があまりにも印象的なので、近くに見えてしまうせいかもしれない。
 広場の地面には、一面に石畳が敷き詰められている。ソ連時代はこの上で何度となく大パレードが行われたのだな、などと感慨にふけるのもよし。まあ、石畳の補修工事はしょっちゅう行われているらしいが。何しろ気候が厳しい上に、あれだけの数の人が通りすぎるのでは、石だってたまったものじゃないだろう。

 広場に足を踏み入れたら、まずは左手にご注目。ピンク色に塗られた可愛らしい教会、カザンの聖母聖堂が建っている。ポーランドによるモスクワ占領(スムータ時代の話です)からの解放を記念して、1636年に誕生したものだが、それからきっかり300年後の1936年に、ソヴィエト政府の命令で解体されてしまった。しかしソ連が倒れると、エリツィン政権による再建ラッシュの先駆けとして、1993年に再び建て直されている。
 そういうわけで、それほど目立たないものの、実はロシア史の波乱をまともに経験しているこの教会。時間があったら、中に入ってみるのもいいだろう。運が良ければ、聖歌隊の非常に美しい歌声を聴くことができる。

 続いて、左手に見えるクレムリンの壁に沿って散策…したいところなのだが、残念ながら壁ぎりぎりまで近づくことはできない。というのは、壁の前にレーニン廟が建てられており、付近一帯が参拝者(っていうのか?)の通路として確保されているから。広場との間が鎖で仕切られていて、これをまたぎ越えようものならたちまち警官たちが飛んでくるはずだ。
 そのレーニン廟だが、これは花崗岩を積んでできた非常に重々しい建築物である。言うまでもなく、中にはレーニンの遺体が永久保存されている。曜日と時間に制限はあるものの、今でも中に入ることはできるから、レーニンの顔を拝みたい人はチャレンジしてみよう。ただしボディーチェックは非常に厳しく、ことにカメラの持ち込みは厳禁である。ちなみに筆者は、93年に一度入ったことがあるきり。光の加減か、レーニンの肌の色が尋常じゃなく白かったことを憶えている。そう言えば、当時はまだレーニン廟名物の衛兵交替もやっていたのだが、今は衛兵自体がいなくなってしまった。
 もしもレーニン廟に入ることができれば、廟から出た後のコースにも注目してみよう。先程も述べた通り、赤の広場側からだとクレムリンの壁には近づけないのだが、レーニン廟参拝者だけはそのチャンスに恵まれている。まずは廟の後方、革命の元勲(含むスターリン)の胸像が並んでいる。続いてクレムリンの壁沿いの通路を歩くと、赤レンガの壁に黒いプレートがいくつもはめ込まれているのに気がつく。これは、ソ連で様々な業績を残した人々の名を記したもので、宇宙飛行士ガガーリンや、日本の社会主義者・片山潜のものもある。それから、没年にやたら1930年代後半が多かったことを記憶している。これは言うまでもなく、スターリンの大粛清により犠牲となったものだろう。ソヴィエトの「英雄」たちがたどった過酷な道のりを思い知らされる。
 ところでレーニン廟をよく見ると、屋根の部分は雛壇のような形をしている。ソ連時代、国の指導者たちが赤の広場で行われるパレードやデモ隊を見守ったのは、まさにこの場所なのである。つまり彼らは、人のお墓の上に立って、にこにこしながらみんなに手なんか振っていたわけだ。レーニンも安らかに眠るどころじゃないですね。と言いつつ、あの上からの景色はどんな風に見えるだろうか、という好奇心は大いにあるわけだけれど。

 クレムリンの対面には、「グム」の略称で知られる国営百貨店が広がっている。高さはともかく、左右方向にはあきれるほど長大で、クレムリンの壁と並んで広場の輪郭を形作っている建築物だ。そしてクレムリンの赤レンガに対し、こちらは白い石で造られており、視覚的なコントラストをなしている。
 グムの建物は1889年から93年にかけて建てられたもので、一見したところ百貨店というより宮殿を思わせる重厚な造りとなっている。よく見ると古代スラヴの伝統に沿った装飾が随所に用いられているが、これは当時流行したネオ・ロシア様式を取り入れているのだそうだ(『ロシア建築案内』から仕入れた知識)。19世紀末頃には、ロシア古来の伝統的な文化や芸術がもてはやされる、懐古趣味的な風潮が社会を覆った時期があったらしい。また、正面のアーチ上にはキリストのイコンが掲げられているが、これは間違いなく、ソ連時代には取り外されていたはずだ。
 もちろん、グムの中には自由に入ることができる。アーケード街がいくつも集まって1つの建物になっているような印象で、おしゃれなブティックなどが多い。ちょっとしたファーストフード店もある。ソ連時代は品数が少なく、外国人観光客に揶揄される存在だったようだが、さすがに今はそんなこともないようだ。どの店舗もモノで溢れかえっている。高いけど。

 グムの前をヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂の方角に歩いていくと、聖堂の前の辺りに、石で組まれた円形の台を見ることができる。これはロブノエ・メスト(「額の場」の意)と呼ばれるもので、かつてはこの台の上から重要な布告や、重罪人への死刑判決が読み上げられた。その他の派手な建築物に比べるとあまり目立たないかもしれないが、赤の広場の歴史を振り返る上で、きわめて重要な史跡であることは間違いない。中をのぞき込むと、多くの観光客がコインを投げ込んでいるのが分かる。
 このロブノエ・メストとほぼ向かい合う形で、クレムリンのスパスカヤ塔が立っている。クレムリンを囲む塔の中でも特に重厚壮大なものの1つで、時計が付いた多角形の尖塔は、広場の景観に一種のまとまりを与えている。スパスカヤ塔はまた、昔からクレムリンの公用門として使われており、今でも要人はここから出入りしている。もちろん一般人には通行不能であるばかりか、門に近づくことさえできない。

 そして、広場の南端にあたるヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂。このすばらしい建築物については、項を改めて紹介することにしたい。ここではただ、聖堂の前に立っている銅像について記すにとどめよう。
 これはミーニンとポジャルスキーの像で、17世紀初めのいわゆるスムータ(動乱)時代、ポーランド軍をモスクワから駆逐するのに貢献した2人の人物を再現している。有名な彫刻家イヴァン・マルトスが、1804年から18年までという長い期間をかけて、この銅像を完成させた。赤の広場の北側にあるカザンの聖母聖堂、そして南端のこの銅像と、いずれもポーランドからのモスクワ解放をテーマにした記念碑であるのは興味深い。この出来事は、我々の想像以上に、ロシア人の民族的な感情をかき立てているものらしい。
 ところでもともとこの像は、もっと広場の中央寄り、グムの正面辺りに位置していた。しかし、レーニン廟の完成によって広場の景観のバランスが崩れたため、現位置に移されたのだと言われている。それが本当なら、移転プロジェクトの担当者には美的なセンスがあったのだと思う。ヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂の前に立つミーニンとポジャルスキー像は、何の違和感もなく景観にとけ込んでいる。

 ヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂の後方は、幅の広い下り坂(ヴァシーリエフスキー坂)となってモスクワ川岸通りの方へ落ち込んでいる。緩やかな坂だが、かなりの長さがあるために、坂の上と下との高低差は大きい。この地点から見ると、モスクワ川に面した小高い丘陵部という、クレムリンの立地条件がよく分かる。
 ちなみに、ソ連時代に赤の広場で軍事パレードが行われると、広場を通りすぎた戦車やミサイルなどの兵器類は全てヴァシーリエフスキー坂へ抜けたのだという。そのせいなのかどうか、石畳が敷き詰められた坂の表面は大きく波打っている。当時の様子を忍びながら、坂を下って散策してみるのもいいだろう。ただし赤の広場内と違い、ここまで来ると一般の車も通るので注意すること。ロシアのドライバーは飛ばしますからね。

(04.02.25)


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