キタイ・ゴロド
モスクワ都心部の輪郭を地図で見るなら、王城・クレムリン(クレムリ)を中心として、いくつかの環状通りが波紋のように重なっていることに気づかれるだろう。さらにまた、同じクレムリンから外側に向かい、何本かの通りが放射状に延びているのもモスクワの特徴である。『地球の歩き方』ではこれを「ダーツ・ゲーム盤」と形容しているが、そんなものかもしれない(あまり気の利いたたとえとは思わんけど)。
このうち環状通りの方は、かつてのモスクワを幾重にも囲んでいた城壁の名残りである。街を守る防御施設として、また市域を区切る境界線として重要な役割を果たしていた城壁が、その役割を終えて撤去され、今では道路だけがその面影をとどめている。今からその中の1つ、キタイ・ゴロド地区を囲んでいた城壁を取り上げてみたい。
すでにご紹介したように、クレムリンはモスクワ川とネグリンナヤ川が交わる地に建てられ、北東側に開いた三角形もしくは扇形の輪郭を持つ城塞である。この扇の弧、つまりどちらの川にも面していないクレムリン北東城壁のすぐ外には赤の広場がある。そしてキタイ・ゴロドとは、赤の広場をも含む、クレムリン北東に隣接した地区を指している。形としては、クレムリンの城壁をモスクワ・ネグリンナヤ両川に沿って延ばし、それをつないで広大な街区を丸ごと囲い込んだのがキタイ・ゴロドというわけだ。
何故この地区をキタイ・ゴロドと呼ぶのか?実は、これに関しては諸説あって定かならずという状況である。例えば、モンゴル語で「中間」を指す言葉「キタイ」を語源とする説。レンガの城壁ができる前、丸太を結んだ「キタ」と呼ばれるもので急ごしらえの柵をつくったからだという説。トルコ語の「キタイ」即ち「砦」に由来すると考える説など様々であるが、今のところは「中間」説が最も有力であるらしい。つまりは中心にある城(クレムリン)とその外に広がる市街地との「中間」というわけで、キタイ・ゴロドを「中間の街」と呼ぶ史料が見つかっていることも、この説の裏付けとなっている。
ところで、現代ロシア語で「キタイ」は「中国」を意味している(「契丹」に由来)。このことからキタイ・ゴロドは「中国人街」と解される場合もあるが、事実は上に記した通り、中国とは無関係であるらしい。しかしいずれにせよ、この地名が東方起原である可能性は高いわけで、都市モスクワの履歴を考える上で興味深い事実ではあると思う。
さて、もともとキタイ・ゴロドは賑やかな市が立つ商業地であり、古くは「大ポサード(商・手工業者地区)」の名で知られていた。この地区を頑丈な城壁と塔と水堀とですっぽり囲み込むという工事が行われたのは1533年から38年、つまりモスクワ大公イヴァン4世(雷帝)の治世初年のこと。といっても当時のイヴァンは10歳に満たない幼児であったから、実際は摂政を務めていた母エレーナ・グリンスカヤ大公妃の指示によるものと考えられる。女性が政治的な世界から締め出されていた中世ロシアにおいて、特に注目すべき人物の1人である。クレムリンが川によって守られていない唯一の方角に位置するキタイ・ゴロドを城塞化することによって、モスクワの都市防衛機能を高め、幼い息子イヴァンの権力を安泰ならしめようとしたのかもしれない。
もちろんこうした防御施設は、軍事技術の発達や街そのものの成長を受けて変化し、または消滅していく運命にある。18世紀初頭の大北方戦争当時、スウェーデン軍のモスクワ侵入を恐れたピョートル大帝は、クレムリンとキタイ・ゴロド周辺に多数の稜堡からなる防御線を新たに追加した。さらに時代が下ると、近代的な都市計画が進められる中、旧来の防御施設は順次姿を消していく(このプロセスはヨーロッパの多くの都市に共通しているものであろう)。モスクワのキタイ・ゴロドにおいても、今まで残っているのはエレーナ・グリンスカヤ時代の城壁と塔の一部だけである。
前置きが長くなったが、それでは現在のキタイ・ゴロドを歩いてみることにしよう。
まずはキタイ・ゴロド南端、モスクワ川沿いの区域。現在、ここにはヨーロッパでも最大の宿泊施設というロシア・ホテルがそびえ立っている。部屋の総数3070、白亜の巨体は馬鹿馬鹿しいまでに大きく、見る者の度胆を抜く建築物である。建設時には多くの史跡を犠牲にした曰くつきのホテルだが、2004年の時点でルシコフ市長が解体にゴーサインを出しており、今後この地区がどうなるのか予測もつかない。ともあれ、ロシア・ホテルは周囲の風景を圧倒し尽くしており、かつての城壁などは跡形もなし。キタイ・ゴロド中、歴史的な面影が最も失われている区域と言っていいだろう。ただ、古い写真によれば、この部分の城壁は革命前の時点ですでに撤去されていたように見える。
一方、ロシア・ホテルの東隣には、北側へ向かって延びる通りがある。その名もキタイゴロツキー小路と呼ばれるこの通りに沿って、古いレンガの城壁が残されている(上写真参照)。キタイ・ゴロドの古い城壁を見たければここ、というくらいによく保存され、モスクワ大公国マニアであれば感涙に咽ぶべきところだろう。
ご覧の通り、キタイ・ゴロドの城壁はそれほど高いものではなく、クレムリンの壁に比べても随分と低い(その代わり、昔は城壁の外側に水堀が広がっていた)。そして目につくのは幅の広さ。内側はアーチ構造になっているから、全てが写真通りの厚さというわけではないのだが、それを差し引いても相当なものだ。さらに、壁の上に幅4メートルもの通路が設けられている点にも注意されたい。もちろんこれは射撃・砲撃戦に用いる空間で、そのため胸壁には大型の銃眼が穿たれている。通路の幅は2頭の馬を並べて歩かせる余裕があり、有事には素早く大砲を移動させることが可能だった。また、復元図によれば、通路上は全て屋根で覆われていたものらしい。
この城壁のスタイルは、火砲の発達を充分に考慮しており、近代要塞への過渡的な形式を示している。当時の西ヨーロッパにおける軍事技術の変革が、ここモスクワにも伝えられたわけだ。事実、エレーナ・グリンスカヤの下でキタイ・ゴロドの城壁建設工事を指揮したのは、ペトロク・マールイ(小ペトロク、本名ピエトロ・フランシスコ・アンニバル)というイタリア人技術者であった。一般的な印象に反し、ピョートル以前のロシアも、西側の技術から完全に遮断されていたわけではないのである。
城壁に沿ってキタイゴロツキー小路を北に歩くと、十字路にぶつかるところで壁は途切れてしまう。ここから左に折れ、赤の広場の方に向かっているのがヴァルヴァルカ通り。通り沿いにある聖ヴァルヴァラ教会が名の由来である。かつてこの地点に設けられていたヴァルヴァルスキエ門も、今は完全に撤去されてしまって何もない。ただ、十字路直下の地下鉄キタイ・ゴロド駅への通路に潜れば、残された門の礎石を見学することができる。長方形に切り出された大きな白石を積み重ねた頑丈な土台で、在りし日のヴァルヴァルスキエ門を偲ばせる遺跡だ。
この十字路から先にも、通りは少し左に曲がりながら真直ぐ続いている。すでに壁自体は残っていないのだが、通りは昔の城壁に沿う形で延びており、おそらくは水堀を埋め立てた部分が道路になったものと思われる。城壁と塔とが延々と連なり、水堀に影を落としていたであろう大公国時代を思い浮かべながら、この道を散歩してみるのもいいだろう。
さて、道なりに真直ぐ歩き、右手に見える巨大な工業技術博物館の建物が途切れたもう少し向こう、その辺りがルビャンカ広場である。現在の地下鉄ルビャンカ駅付近には、昔はキタイ・ゴロドに入る門の1つ、ニコリスキエ門があった。門は20世紀まで残っていたのだが、地下鉄の駅を建設する際に撤去されたという話。まことに都市改造とは史跡にとって過酷な試練である。もちろん、住む人の便利を第一に考えると、かかる破壊も仕方のないものかもしれないが…
この地下鉄駅からルビャンカ広場を挟んだ真向かいには、FSB(連邦保安庁)本部の建物を見ることができる。多分、旧KGB本部と書いた方が通りがいいだろう。謎に満ちた組織という印象が強い旧KGBだが、あまりにも堂々と巨大な本部を構えていて可笑しいくらいだ。建物を構成している石の色調も意外なくらいに明るく、そんなに陰気な感じではない。昔はここで写真を撮っていただけでチェックが入った由で、だったらこんな分かりやすい場所に造るなよと言いたくもなる。
ルビャンカ広場から先、道路は左手に向かってほぼ直角に折れているが、これもやはり旧城壁の輪郭に沿ったものである。この辺りはキタイ・ゴロドの北辺で、昔はネグリンナヤ川を前にあてて堀とし、その後ろに城壁と塔を巡らして守りを固めていた。しかし現在、ネグリンナヤ川も城壁の大部分もその姿を消しており、車通りの激しい都心の道路とビル街が続く風景から往事を想像することは難しい。
ただ、通りを左にまがってすぐのところ、道路沿いにちょっと小高い場所があるのには注目した方がいいだろう。ここには古い城壁の一部が申し訳程度に復元してある他、有名な印刷技術者イヴァン・フョードロフの像と、考古学的な発掘調査の成果を見ることができる。古くからモスクワ市の中枢の一部であったこの場所では、当然のことながら発掘により多くの興味深い発見があったのだが、とりわけトロイツァ教会の礎石は重用である。これは1493年以来の歴史を持つ古い教会で、その周辺と地階部分にはいくつかの募石も残っていた。
写真では分かりにくいかもしれないが、左側の奥がアプシダ(後陣)であって、はっきりとした半円形をなしている。また、手前には発掘当時の状況を記した説明版が立てられているので、ロシア語が読めるのであれば必見。
この教会跡及びフョードロフ像からもう少し先に進むと、背が高くて白く塗られた門の如き建築物がある。説明書きも何もなく、かつてのキタイ・ゴロドの城門(あるいはその復元)というわけではないようだ。一方、門の右手にはもたれかかるようにして円形の塔が立ち、レンガ造りの城壁がその奥へと続いている。これは間違いなくキタイ・ゴロドの遺構である。残念ながら、城壁はメトロポーリ・ホテルの後方に隠されてしまって、すぐ近くまで寄ってみることはできない。
この地区の城壁を観察するなら、ホテルの正面前を抜けて左に折れ、革命広場の方に出る方がいいだろう。ただ、ホテルの裏側に残る壁は(色合いなどから)オリジナルだと判断できるが、広場に面した部分はやけに新しく、明らかに現代になってから手が加えられている。また、古い塔の形をしたレストランもあるのだが、これもどれほど元の建築物を利用しているのかは不明な代物だ。外見はこんな感じ。
まあ、キタイ・ゴロドの復元図を見ても、この位置にこの形の塔があったことは間違いないようだから、全くの創作ではないのだろうが。ちなみにこのレストランの背後には、「ゴドゥノフ」という別のレストランがあり、古い伝統的なレシピで飯を食わせるという話。一度行ってみたいのはやまやまだが、何しろとんでもなく高いらしいので、いまだ果たせないでいる。
この「塔のレストラン」のところで城壁は終わり、キタイ・ゴロドの名残りを示すものとしては、あとはヴォスクレセンスキエ門くらいしかない。レストランからさらに先に進み、旧レーニン博物館と歴史博物館との間にある門で、その位置関係については赤の広場の項を参照されたい。2つの尖塔を持つ立派な門だが、オリジナルはソ連時代に破壊されており、現存のものは1997年の復元である。
かつてはこの門の前にネグリンナヤ川が流れ、橋(ヴォスクレセンスキー橋)がかかっていた。つまりヴォスクレセンスキエ門は、川を渡って赤の広場に入る大手門のような役割を果たしていたことになる。現在では門の左右の城壁は失われてしまっているが、その代わりに巨大な2つの博物館がそびえているため、相変わらず赤の広場への入り口として機能しているわけだ。
現在、キタイ・ゴロドは地名としては存在しているものの、城壁は部分的にしか残っていないために全体像は把握しにくい。そもそも、キタイ・ゴロドとは何であるか自体、日本ではほとんど知られていない。見どころの多いモスクワにおいて、古びた城壁に注目するほど酔狂な人も少ないのではないかと思う。しかし、モスクワ市の歴史的な輪郭を知るためには、実は非常に重要な遺跡なのであって、機会あれば是非見ておくことをお勧めしたい。
(05.01.26)
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