クレムリン4(アルハンゲリスキー聖堂)

 さて、またクレムリン南辺を引き返し、大クレムリン宮殿の右手にあるソボールナヤ広場(聖堂広場)に出た。これは、先ほど見たイヴァンの鐘楼の背後にあたる空間であり、文字通り複数の聖堂によって囲まれている。いずれも白い壁に黄金の丸屋根という共通のスタイルを持つ、古い教会である。
 まずは広場の中でも南に位置するアルハンゲリスキー聖堂に入った。アルハンゲルすなわち英語のアークエンジェルで、大天使ミカエルに捧げられた教会である。建物自体は16世紀初頭に、イタリア人技師の設計によって完成した。トロイツカヤ塔の項で述べたように、中世のモスクワ大公国は意外なほど西欧の文化的影響を受けていたのだ。そう思って見ると、例えば南側の外壁が(他の教会のように)垂直ではなく傾斜がつけられているところなど、どことなくロシアの一般的な建築とは違うように感じられた。
 石段を登って中へ。まずポーチ部分の壁に聖像画が見られた(フレスコ?)。長年の風雨にさらされた結果か、かなり傷んで誰が描かれているのかもあまり判然としない。早急な修復・保存が望まれるところだろう。
 聖堂の内部には同じく、壁一面に聖像画が描かれている。しかしこちらも少しくすんでいて、ちょっと地味な印象を受けた。空間全体にあまり生気がないように見受けられたのは、もはや現役の教会として機能していないからであろうか。ただ、その分、(観光客の後ろめたさを感じることなく)落ち着いてゆっくり見学できたのも事実であった。


 この聖堂で目を奪われるのは、何と言っても所狭しと並べられた石棺である。ピョートル大帝がペテルブルクに遷都するまで、歴代のモスクワ大公とツァーリの遺骸はこの聖堂に安置されるのが常であった。そして今日でもなお、我々はその棺を目にすることができる。古代エジプトや中国の支配者が自らのなきがらを隠すのに腐心したのと比べると、同じ「専制君主」と言ってもロシアの場合はずいぶんと違っている。これがスラヴ人特有の心性なのか、あるいはキリスト教の影響なのか、ちょっと分からない。
 石造りの棺には何やら記してあるのだが、古い教会スラヴ語である上に独特の飾り文字などを使っていて、さっぱり理解できない。しかし幸いにも、石棺の外側に金属(真鍮?)製の覆いがかけられていて、棺の中に葬られているのが誰か、書いてくれていた。字体から判断するに、この覆いも帝政時代のものであろう。
 その上に書かれた文字を見ていくと、おかしなことに気がついた。「大公(ヴェリーキー・クニャーシ)」と記されているにもかかわらず、モスクワ大公としては見覚えのない名前が続いているのである。どうやら、大公の一族が葬られた石棺であるらしい。この場合、称号としての「大公」ではなく、「偉大なる公」の意味で解釈するべきか。ややこしいものだ。


 さて、聖堂に納められた棺の中で最も古いのはイヴァン1世カリター(在位1325〜41年)のもので、以下、彼の子孫たちと初期ロマノフ家のメンバー、それに他系統のツァーリがここに眠っている。まず目についたのは、左側にある二つの棺上に、特に説明書きが置かれていたことだった。これは名高いモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイとその従兄弟・セルプホフ公ウラジーミル(勇敢公)、すなわち、ロシアが初めてタタールを破ったクリコヴォの戦い(1380年)で活躍した二人なのであった。もちろん説明もこの戦いに関するもので、ロシア人にとってやはり「クリコヴォ」は特別な意味合いを持っているらしい。
 聖堂の中央近く、特に目立つ場所に安置されているのは、イヴァン雷帝の子・「真の」ドミトリーの棺である。「偽の」ドミトリーが打倒された後に即位したシュイスキー(ツァーリとしてはヴァシーリー4世)は、「皇子ドミトリーはまだ生きている!」という噂を否定するためその遺骨をモスクワに運び、ここに改葬したのであった。さらにそのドミトリーは列聖されたため、このように特別な扱いをされているのであろう。
 しかしこのシュイスキー、偽ドミトリーがモスクワに入城したときにはそれに従っておきながら、陰で民衆を扇動して暴動を起こさせ、最終的に自分がツァーリとなることに成功したのであった。いかにも「悪いやっちゃなー」という感じだが、うち続く動乱(スムータ)の中でツァーリの位を持ちこたえることはできず、ほどなくして退位へと追い込まれた。そのツァーリ・シュイスキーも、この聖堂の中に葬られている。
 また、同じく中央付近にはミハイルやアレクセイをはじめとしたロマノフ一族の石棺が並んでいる。ピョートル1世(大帝)がペテルブルクに遷都したため、ここには彼以前のツァーリまでしか葬られていないのかと思っていた。ところが意外なことに、ピョートル2世(1世の孫)の棺が安置されていたのである。大帝の没後、そのあまりに急激な近代化(西欧化)政策に対する保守派の反動が起こり、都も一時的にモスクワに戻されたことがあったらしい。おそらくはそれと関係があるのだろう。しかしピョートル2世はわずか15歳で没し、保守派の期待にはあまり応えることができなかった。

 ここに葬られた人々の中でも一番有名な人物は、おそらくイヴァン雷帝であろう。しかし残念なことに、その棺を目にすることはできない。と言うのも、雷帝ともう数名の棺(雷帝に殺された不運な皇子イヴァンとその弟・フョードル1世?)は教会の内陣部分にあり、イコノスタスに隠された形となっているからだ。理由は不明だが、雷帝のあまりにも強烈な個性が畏怖の対象となり、人目につく場所にその棺を安置することを許さなかったのかもしれない。
 なお、イヴァン雷帝による粛清の犠牲者、スタリツキー公ウラジーミル・アンドレーヴィチの棺は、聖堂の入り口近くに置かれている。ツァーリの位を狙ったという口実で殺害されたウラジーミル公だが、皇族としてアルハンゲリスキーに埋葬される権利だけは奪われなかったものらしい(彼は雷帝の従兄弟にあたる)。この辺りも少し意外な事実であった。
 イヴァン雷帝の時代までに、モスクワ大公の中央集権化政策はほぼ成功を収め、それまでロシア各地を支配していたいわゆる「分領公」は一掃されつつあった。スタリツキー公は分領諸公の中でも最後の生き残りであり、ウラジーミル公の処刑がモスクワ専制路線の勝利を象徴するものとしてとらえられることも多い。ロシア史の大きな流れから見ると重要なのはそうした背景で、ウラジーミルの遺骸がどこに葬られたのか、などはあまり問題とならないのかもしれない。それでもなお、殺した者と殺された者が一つの空間の中で眠っているという事実は、なにがしかの感慨を呼び起こさずにはいられないものである。

 本当はこれ以外の聖堂も見て回りたかったのだが…
 アルハンゲリスキーを出て向かいにあるブラゴヴェシシェンスキー聖堂に入ろうとすると、ちょうど中では片付けが始まったところで、係りのおばちゃんが手で大きなバッテンを作って見せた。「今日はダメ!もう終わり!」ということらしい。夕方4時、ちょっと早すぎるのでは?と思うくらいの時間だが、とにかくこれで閉館である。なお間の悪いことに、昼頃はよく晴れていたのが一天にわかにかき曇り、それこそ車軸を流すがごとき豪雨が襲いかかってきた。よほど日頃の行いが悪かったのだろうか。他の教会を外観なりとも見ながら帰ろうと思っていたのに、この有様では近くの建物の下に逃げ込むしかなかった。
 まあ仕方がない、今回はアルハンゲリスキーだけで満足しておくことにしよう。見所がまだ残されている、と考えれば楽しみでもある。とにかく、ロシアの古い歴史に興味を持つものにとって、クレムリンとは宝の山に等しい存在なのである。

(01.06.16)


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