ロシア国立歴史博物館
外国のメディアがモスクワを映像で紹介する場合、一番使われる頻度が高いのは「赤の広場」であろう。しかもその場合、クレムリンを右手に、ヴァシーリー・ブラジェンヌイ教会を真正面にとらえる構図が一般的となっている。確かに、極彩色の玉ねぎ型ドームをそびえ立たせるブラジェンヌイの奇怪な姿は絵になるもので、その上右手に「権力の象徴」クレムリンの城壁を映し出すのだから、これはまずイメージ画像として最適のものである。
しかし、もしこのときカメラが180度回転したなら、これに劣らぬほど印象的な一つの光景を撮し出すことになるだろう。そこには濃い赤レンガからなる宮殿様式の、しかしながら細部を観察すればまぎれもなくロシア伝統建築の影響を受けた、巨大な建物がそびえ立っている。クレムリンやロシア教会によく見られる印象的なスタイルの尖塔がその巨体を飾り、中でも大きな4つの塔の先端には、「双頭の鷲」が金色に輝いている──これこそが、ロシア最大の歴史博物館・国立歴史博物館である。
川成洋編『世界の博物館』(丸善ライブラリー287、1999年)という本には、この博物館についての記述がある。ちなみに担当されているのはかつてのモスクワ放送局員で、小生の前任者にあたる方なのであった。
この本によると、博物館の創立は1872年、建物自体の竣工は1881年という。収蔵品は(1999年段階で)450万、その他に1200万の文書・史料を保管するという巨大な博物館である。1986年から実に11年の長きに渡って改修工事を行っており、その間は一切の入館が許されなかったが、97年のモスクワ「建都850周年」にあわせて再オープンされた。ただし現在でも外壁のかなりの部分に足場が組まれ、工事が続けられている。もしかすると博物館の内部でも、一部でまだ改修が行われている可能性もあろう。
以下、本書を読めば歴史博物館に関する必要な情報が得られるので、興味のある方は参照されたい。デノミが行われたために入場料金がまったく違うものとなっているが、それ以外は大きな変更もないものと思われる。
さて、ここでは2001年の歴史博物館について、個人的な印象をもとにお伝えすることにしたい。
まず入館前に目につくのは、入り口付近にいつもツァーリとツァリーツァ(皇后)、それに2名の銃兵隊員がたむろしていること。と言ってもこれは本物ではなく(当たり前だ)、観光客と一緒に記念写真を撮るためにそんな格好をしているにすぎないのだが、ツァーリは豪奢な衣装を身にまとって錫杖なんぞを持っているし、銃兵隊員は火縄銃や鉤矛で武装していて、見るだけで愉快なものだ。しかし観光客の多くはツァーリやツァリーツァの方ばかりに気を惹かれ、銃兵と並んで写真に収まる者が少ないのはちょっと気の毒である。
それから、いつもではないのだが、同じく入り口付近にマルクスとレーニンのそっくりさんが立っていることも。もう「何でもあり」状態だ。ただしレーニンの方はいつもハンチングみたいな帽子を被っていて、あの禿げ具合まで似ているかどうかまでは分からなかった。
ツァーリの脇を通って入り口へ。右手にはミュージアムグッズの売店があって、ここまでは無料で入れるのだが、大したものを売っているわけではない。大人しく左手にある窓口で金を払い、入館するのがよろしかろう。
中に入るとまず、手荷物を地下室のクロークに預けるように指示される。ここだけでなく、ロシアの博物館ではカバンの持ち込みを禁じられているところが多いようだ。その方が楽でよいのだが、貴重品だけは肌身離さず持っていなくてはならない。また冬にはコートなども預けることができる。
ところで荷物の番号札をもらってから階段を上ろうとすると、近くにあったトイレからいきなり(さっきの)銃兵隊員が出てきたのでびっくりした。今考えてみてもシュールな光景である。彼らはこの博物館の職員なのであろうか?
まず、館内順路の起点となるホールへ。ここに来たら、忘れずに天井を見上げるようにしたい。水色を背景にして巨大な木の天井画があり、各枝ごとに歴代大公・ツァーリが描かれているのである。いわゆる系統樹に近いのだが、しかし「万世一系」というわけではないし、何よりも途中でリューリク家からロマノフ家に入れ替わったりしているので、実際の系譜と正確には対応していないようだ。また、根本には聖ボリスとグレープが立っていて、木に水をやっているのが何となく微笑ましい。ロシアの支配者は(この二人が象徴している)キリスト教精神によって育まれてきたのだ、と言いたいのだろう。
ところで、前記『世界の博物館』によると、この絵はスターリン時代に白く塗りつぶされ、近年やっと旧に復したとのこと。革命後、このような形で抹殺された記念碑は他にも多かったものと思われる。しかしソ連崩壊後は逆に、ソヴィエト時代のモニュメントが大量に取り壊されていることも事実である。人間の営みには何と無駄が多いことか。
このホールからはまず、特別展示の古地図コーナーに入った。古地図と言っても、全てピョートル一世時代よりも後のものである。この当時、やっと測量によって正確な地図を作る技術が西方から入ってきたらしく、ピョートルの命令でドイツ語などから訳されたロシア地図も飾られていた。ちなみに、ヨーロッパの科学に頼らないロシア伝統方式で作られたシベリア地図もあったが、これがさっぱり分からない。何故かシベリアが円形なのである。もっとも、これを使っていた人々は特別な見方をして必要な情報を引き出すことができたのかもしれないが、いずれにせよ正確さにおいては近代地図にかなわないだろう。やはりこの面でも、ピョートルの貢献は巨大なものであったと言える。
さらに中に進むと、ロシア帝国のフロンティアとなった極東地方の地図を何枚か見ることができた。やはり我々としては「日本」の描かれ方に目がいってしまう。期待通り(?)なかなか不正確なものであったが、特に北海道が「マツマエ島」と「エゾ島」の二つに分割されていたのが注目された。松前藩による蝦夷地支配の実体から、このようなイメージが生まれたのではないだろうか。この他、様々な街や要塞の図面、海戦の図など興味深い展示物が続き、このコーナーだけでかなりの時間を使ってしまった。
地図コーナーを一通り見終えると、また最初のホールに戻り、順路に従って見学を開始する。ここからは時代順になっていて、まずは人類最古の時代から始まるわけだ。入り口付近に設置されたガラスケースの中からは、化石をもとに復元された古代人の塑像が入館者を見つめている。「石膏による復元」はどうやらソヴィエトの得意技であったらしく、有名な人類学者・ゲラシモフは、ヤロスラフ賢公やアンドレイ・ボゴリュープスキー公、それにティムールなどの顔を頭蓋骨から再現した、という例もある。
それから、入り口上部の壁には古代人によるマンモス狩りの様子が描かれていたのだが、これがどことなく社会主義リアリズムを思わせるスタイルで、ちょっと面白かった。落とし穴に落ちたマンモスに石をぶつけようとしている人物なぞ、衣装を替えれば「1905年革命において、バリケードの内側から投石せんとする労働者」として通用しそうだ。もっともこの絵がソ連時代のものとは限らず、劇的なポーズが偶然に似ていただけなのかもしれないが。
これより先、いくつものホールに渡り膨大な量の考古学資料が陳列してあるのだが、その全てを詳細に報告するなら優に一冊の本が書けてしまう。ここではただ、考古学ファンにとってこの博物館は文字通り「宝の山」である、と指摘するにとどめたい。繊細な石器の類から巨大な丸木船まで、バラエティに富んだ展示物の数々は、自分のように考古にはさして大きな関心を持たない人間にとってさえも見応えのあるものであった。
順路を追って見学するなら、単に展示資料の数が多いだけでなく、彼らが人類の歴史を子細に物語っていることもよく分かる。石器・骨器の時代からやがて土器が現れ、金属が登場し、初期の銅剣は鉄剣へと取って代わられる。また、最初は武器や容器など実用一辺倒だったものが、少しずつ装飾を施すようになり、意匠も徐々に複雑化し、ついには人間や動物の像、そして崇拝の対象としての神像が造られる──ありきたりの年表ではなく、目に見える形で人類の技術的・精神的な成長を追体験するという行為は、何とも言えず楽しいものであった。
これらの遺物は、例えば中央ロシア、黒海沿岸、中央アジア、シベリア等々、ロシア/ソヴィエトの様々な地域で採集され、集められたものである。他国からの「輸入品」は含まれていない。この国の広大さは、人類黎明期の回顧をほぼ独力で可能とせしめた、と言えようか。しかし同時に、かくも多様な地域・民族の歴史的遺産を全てロシアが、就中その中心であるモスクワなどが吸い上げている、という事実も指摘されなくてはならない(我々モスクワの住人は、いわば特権階級としてこれらの遺産を独占しているわけだ)。とりわけソヴィエト崩壊後、従来の民族意識や国境線などは大きく変化しており、地方からの吸収によって成り立っている考古学コレクションの在り方が問い直されても不思議ではないだろう。
個人的に、より大きな関心を持って見学することができたのは、黒海北岸・南ロシア草原で活動した遊牧諸民族以降の展示である。この辺りまで来ると、かすかながら「ロシア史」とのつながりも見え始めるからなのだが、そればかりでなく展示物自体も充分に目を楽しませてくれる。例えば兜や剣といった武具にしても、細部に施された優雅な装飾によって、一種の芸術品であると評価することもできよう。さらに、有名なスキタイの動物文様も、ベルトの留め金などに見ることができる。野生の荒々しい迫力が繊細な技術によって再現され、非常に完成度が高い。遊牧民族の文化はいまだに低く見られる場合が多いが、そうした偏見がいかに誤ったものであるかを見事に証明している。
ところで、遊牧コーナーから先は時代順の見学路とは別に、もう一つのルートが分かれている。そちらに進むと、いきなり近世・近代のロシア帝国になってしまうのである。どうしてまたこんな訳の分からないつくりになっているのか不明だが、取りあえずは正規の順路に従っておいた。
遊牧民に続いては、クリミア半島や黒海沿岸に点在したビザンツ植民都市などのコーナーが現れる。すでにキリスト教文化の時代であり、十字架や聖像も目についた。しかしビザンツまで来たら、キエフ・ルーシもそう遠くはないだろう。抑えかねる期待を胸に、展示のガラスケースを追っていたのである。
実際、キエフ・ルーシに関する遺物はこのすぐ後、一番どん詰まりの大きなホールに収められていたのだが…
結論から先に言うと、楽しみにしていた分ちょっと期待はずれだったかもしれない。展示の数は思ったより少ないし、その上ホールの一部がハザール人などに割かれていたのでなおさらである。また、こういう表現が適当であるかどうかは分からないが、スキタイなどに比べて展示品に「面白味が少ない」という印象も受けた。見栄えのする武具甲冑の類や繊細巧緻な装飾品など、見る者に強い印象を与えるものが今ひとつ少なかったかな、と思うのである。
もちろん、そうした派手な遺物にしか価値がない、と言うつもりはない。例えば地味な農具一つをとっても貴重な遺産だし、むしろ一般の生活を物語る史料としてはより重要な存在である。ただ博物館の人情として、もし人目を惹く派手な物件が残っていれば、必ずやそれらを大きく目立たせようとするだろう。そして、キエフ時代に関してそれが少ないのは、実際に保存されている絶対数自体が少ないからなのではないか。この時代からは、文書史料と同じように考古史料もあまり多く残されていないのではないか。そんなことをふと思った。
だからといってこのコーナーで楽しめなかったわけではない。先にも述べたような「生活を物語る史料」、例えば家を建てるための釘一つをとっても、キエフ時代の息吹を今に伝えるものとして、多いに想像力が刺激される。鎌に代表される農具、また森の国・ルーシでは殊に重要であった斧など、いずれもの人々が手にとって実際に使用したものなのである。また女性の髪飾り・耳飾りは、当時の手工業技術を物語るばかりでなく、地域や種族(ポリャーネ・ラジミチなど)によって形態が違い、非常に貴重な史料であるらしい。
さらに、「派手な」展示品も皆無というわけではない。例えば鎖鎧や兜、剣といった武具も(それほど多くはないが)展示されている。ルーシの剣は長大な直刀で、騎馬民族が多用するサーベルとは明らかに異なっていた。そしてホールの一隅には、さりげなく置かれた異教時代の神像を見ることができる。よく概説書に載っている写真は、これを撮影したものかもしれない。と思うと、感動もいっそう大きかった。
また一方の壁には、キエフ時代を描いた巨大な絵が掲げられていた(どうやら革命前の古い作品らしい)。ノルマン系らしき首長の葬儀がテーマとなっており、火葬用の船と多くの副葬品、さらに今にも殺されんとする人間の生贄が目を惹く。何もこんな陰惨な場面を選ばなくともよさそうなものだが。
さて、このホールから先の順路は、細い階段を使って2階へと導かれている。ところが、上がった先には小さな部屋がいくつかあるだけで、内容もキエフ時代の続きではなく、19〜20世紀についてほんのわずか展示品があるだけだった。この趣旨はいまだによく分からない。分からないまま、引き返すしかなかった。
仕方ないので遊牧民の部まで戻り、「分岐点」からロシア帝国のコーナーへと進んだ。展示は非常に多岐に渡り、興味深かったのだが、ここでそれについて語ろうとは思わない。と言うのも、この先にさらに別の入り口があり、モスクワ時代についての膨大なコレクションが始まっていたからだ。その上、2階に通じる別の階段もあり、そちらにも順路が続いているらしい。今まで見た考古〜キエフ・ルーシの部は、膨大なコレクションのほんの一部分にすぎなかったらしい。この博物館の大きさを、少し甘く見ていたようだ。
この日は時間もなく、また気力・体力も消耗していたので、モスクワ以降の展示については捲土重来を期すことにして、一旦引き上げを決意したのであった。博物館訪問記の続きも、その折りにまた書き足すことになろう。ただし、もう一度来館しただけで全てを見尽くせるかも定かではないのだが。(01.07.18)
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