ダニーロフ修道院略史
ダニーロフ修道院の開基は1282年以前、初代モスクワ公となったダニール・アレクサンドロヴィチ(1261〜1303年)による。ダニール公は有名なアレクサンドル・ネフスキーの末子にあたるが、幼くして父を失い(1263年)、所領の相続にあたってはいまだ辺境の小都市にすぎなかったモスクワをあてがわれた。後に「タタールのくびき」を克服し、ロシア全土を統一するモスクワ大公国の、まさに出発点となったのがダニール公の時代なのである。
1303年、モスクワ公ダニールはその生涯を閉じるにあたって、自らが建立したダニーロフ修道院に入り、修道士として剃髪を受け入れた。歴代モスクワ公の中で、初代ダニールだけがクレムリンではなくここに葬られているのも、そのような理由によっている。
しかし、修道院はダニール公の没後ほぼ2世紀に渡って忘れられた存在となっていたらしい。ようやくイヴァン3世(在位1462〜1505年)の時代に、ダニール公に対する崇拝が始まっている。修道院側の説明によれば、ダニール自身がイヴァン3世の家臣の前に現れ、自分のことを忘れている不届きな子孫を叱責するよう伝えさせたというのだが、穿った見方をすれば、当時ロシア全土をほぼ統一していたイヴァン3世の政策とも関係があったのかもしれない。モスクワ大公家の「始祖」ダニールを聖化することで、諸公に対する支配権の正当性を主張しようとしたのではないか。イヴァン3世の子・ヴァシーリー3世の時代には、大貴族イヴァン・シュイスキー公がダニールの墓を敬わなかったために処罰された、という事件さえ起こっている。
さらに高名なイヴァン4世(雷帝)は、修道院の物質的な再興を進め、初めてダニーロフに石造りの聖堂を建設したという。しかしこれまた穿った見方をすれば、当時モスクワは南方のクリミア・タタールから襲撃されることを恐れており、クレムリンの出城としてダニーロフ修道院を強化した可能性もあろう。ロシアではしばしば修道院や教会が砦として利用され、今に至るまで堅固な城壁が残っている場合も多いのである。
雷帝の死から半世紀以上を経た1652年、ダニール公の不朽体(腐敗することなき聖人の遺骸)が発見され、ツァーリ・アレクセイと総主教ニコンによってダニーロフ修道院の聖堂へと移されるという出来事があった。しかし現にダニール公の墓があるのに、改めて遺骸が発見されるとは妙な話であるが、修道院の小冊子にも詳しい説明がないので事情はよく分からない。また同時期、ダニール公は教会によって列聖されている。雷帝時代に公の遺骸が最初の奇蹟(治癒)を行ったという記述があるので、おそらくはこうした理由によるものか。小冊子によると生前のダニール公は「謙虚にして平和を愛する」人物であったとされ、父・ネフスキーのようなはなばなしい功績もないので、列聖するとすればやはり死後の奇蹟しかないわけである(しかし謙虚で知られた公が、数百年後の子孫に自ら存在をアピールするというのは…)。
言うまでもなくアレクセイ帝はロマノフ朝第2代のツァーリで、ダニールを祖とする(リューリク朝)モスクワ大公家とは直接の血縁関係を持っていない。しかし、リューリク家の断絶とそれに引き続いた「スムータ(動乱)」を経てツァーリの位を得たロマノフ朝にとって、ダニーロフ修道院はロシア統合のシンボルとして位置づけられていたとも考えられる。ともかく、イヴァン3世、イヴァン雷帝、それにアレクセイ・ミハイロヴィチと、ロシア全土に対するモスクワの覇権が強化された時代にダニーロフ崇拝も盛んになっているという事実は、なかなか興味深い。
以後修道院は、曲折を経ながらも発展を続けた(その間、1812年にはナポレオン軍の兵士達によって略奪を受けている)。19世紀になると、ダニーロフ修道院の敷地内にある墓地には多くの文化人が葬られた。例えば作家ゴーゴリ、絵画収集家として有名なトレチャコフ(トレチャコフ美術館の創始者)、思想家サマーリン、ホミャコーフなどである。この面子を見ても分かるように、ダニーロフ墓地はどちらかと言えばスラヴ主義的傾向を持つ人々に好まれていた。
しかし1917年の10月革命、及びそれに引き続いたソヴィエト政権の成立は、他の多くの修道院・教会と同じくダニーロフにとってもまた苦難のはじまりを意味していた。1917年に修道院長となったフョードルは、ダニーロフに神学校を開き、また政府によって追放された聖職者たちをかくまうなどして積極的な活動を続けていたが、ついに1930年、ダニーロフ修道院は閉鎖の憂き目を見た。院長フョードルも数度の逮捕の後、37年には銃殺刑に処されている。
閉鎖後の修道院は孤児収容施設として利用され、また敷地内の墓地も撤去された。しかしゴーゴリの墓は現在ノヴォデヴィチ修道院にあるという話だから、その他の墓もまた移転されたものと思われる。ソヴィエト政権といえども、有名な文化人の墓地を破壊するような無法は避けたのだろうか。
1982年、当時のモスクワ総主教ピーメンは政府に対してロシア正教会の本拠となる修道院の再開を求めた。翌83年、政府から許可が下りると、ピーメンはダニーロフを候補として指名した。かくしてダニーロフ修道院は正式に政府からロシア正教会へと返還され、再建への道を歩むことになった。しかし当時はまだペレストロイカよりも前のこと、教会に対する政府の融和的な態度は少し意外である。この時からすでにソヴィエト政権の「開放」政策は始まっていたのかもしれない。
再建にあたっては、歓喜した信徒たちが続々と集まって自発的に援助を行い、またソヴィエト全土から寄付が集まった…と、修道院のパンフレットには書かれている。もっとも、教会にとって「冬の時代」の終わりを象徴する出来事として、ダニーロフ復活が熱狂と興奮をもって受け入れられたことは想像に難くない。ともあれ、聖堂の修復は驚くほどのスピードで進められ、総主教公邸なども敷地内に建設された。かくして、モスクワ最古の栄誉を担うダニーロフ修道院は昔日の面影を取り戻し、今もなお信者の尊崇を集めている。
なお付言するなら、ダニーロフ修道院は総主教直属という形になっており、従って現修道院長は総主教アレクシー2世その人である。ただしそれでは実務に差し支えるためか、「院長代理」という称号を持つ事実上の修道院長が運営にあたっている。このような形態をとっている修道院はそれほど多くはなく、ここからもダニーロフの持つ特別なステータスが理解できるであろう。前のページに戻る
(01.07.25)
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