ダニーロフ修道院
モスクワの中枢・クレムリンから南の方角、地下鉄でいくとほぼ3駅の地点にダニーロフ修道院はある。「地球の歩き方」でも特に紹介されておらず、日本人観光客にはあまりなじみのない寺院であろう。しかしダニーロフこそは数あるモスクワの修道院の中で最も古く、高い格式を誇っているのである。歴史的な価値も大きなものと言わなくてはならない。
それではまず、修道院で買い求めた小冊子をもとに、ダニーロフの沿革を簡単にまとめておきたい…と思ったのだが、例によって「簡単に」とはいかず、中途半端に長くなってしまった。文才の不足はこんなところに現れるものだ。
という次第で、ダニーロフ略史については頁を改めさせて頂いた。興味のある方はご一読いただきたい。→ダニーロフ修道院略史
現在のダニーロフ修道院は、残念ながら環境に恵まれているとは言い難い。周囲の街並みはうら寂しく、殊に東隣には古ぼけた工場群が立ち並んでいて、はなはだ美しからぬ景観を呈している。これが偶然の産物か、あるいはソヴィエト政権による嫌がらせなのかはよく分からないが、ともかく観光客を呼べるような景色でないことは確かだ。
修道院の広大な敷地はほぼ長方形で、レンガ造りに白塗りの頑丈な壁で囲まれている。クレムリンのそれほど高くはないものの、やはり頂部が凹凸となった城壁スタイルで、特に正門近くの壁は上下二列に銃眼が並んでいる(壁の内側から見ると、上部銃眼に沿って回廊が作られていた。戦時にここから射撃するためのものであろう)。また壁の数カ所には多角形をした頑丈な塔、そして見張り台が設けられ、やはり銃眼がいくつも空けられていた。どの時代にできたものかは分からないが、明らかに城塞としての構造を持つ建築物である。
略史にも書いた通り、ダニーロフ修道院で石造りの聖堂が姿を現したのはイヴァン雷帝の時代であった。当時のモスクワにとって最も恐るべき敵の一つが南方のクリミア・タタールであったから、ダニーロフ修道院にクレムリンの前衛としての機能が求められても不思議ではない。先にも述べたとおり修道院はクレムリンの南側にあり、なおかつ背後にモスクワ川を背負っているため、敵軍が水路を用いてモスクワの中枢に接近しようとした場合にもこれを阻止しうる位置を占めている。ただし、現在の「城壁」が雷帝時代そのままのものという確証があるわけではないのだが。
修道院の正門(「聖なる門」)は市電の通る道に沿った北面にあり、どちらかと言えば東側によっている。門の上部はピンク色に塗られた背の高い鐘楼で、西欧風の建築様式で構成されている。ただ、白い縁飾りの装飾にはロシア伝統様式が見て取れよう。門の内側にはダニール公がモザイク画で描かれていた。礼拝の時間にはもちろん鐘楼の鐘が鳴らされるのだが、見ていると修道士が鐘楼に登るのではなく、地上からロープを引っ張って器用に鳴らしていた。
この修道院が観光化されておらず、信仰の場として生き続けていることは、修道院に入る人々が必ず門の前で十字を切る様子からもうかがえる。その真摯な様には心打たれずにはいられないが、しかし同時に、「信仰」に縁薄き自分のような人間にはこの修道院が場違いであることを思い知らされて多少複雑な気分になる。だからと言って、これまでに入場を断られた経験があるわけでもないのだが。
ところで、正門の傍らにはコサックが立って守衛を務めていることが多い。いや、正門ばかりではなく修道院の中でもコサックをよく見かける。なぜコサックと分かるかというと、帝政時代の古い軍服を着込み、腰には長いサーベルや鞭までぶら下げているからだ。最初はコスプレかと思ってびっくりした。
ソヴィエト時代末期に「復活」を遂げたコサックが、正教の守護者という点にアイデンティティを求めていることは事実だが、それにしてもなぜここで警備員まがいの仕事をしているのか。おそらくは、ダニーロフ修道院が総主教の座所として機能しているため、一種の「親衛隊」として勤務しているつもりなのかもしれない。また、ダニーロフの再興はロシア正教会自体の再生を象徴するものと受け取られ、同時期のコサック復活運動とリンクした可能性もあろう。ともあれ、ダニーロフ修道院とコサックは特別のつながりを持っているらしく、夏の暑い盛りにもきちんと制服を着込んだコサックたちが修道院内を警護して歩いている。また、修道院からちょっと離れたところにある「ダニーロフ市場」は、マフィアの代わりにコサックたちが取り仕切っているという話だ。
「聖なる門」をくぐり、いかめしいコサックの脇を通って修道院の中へ。門の左部分は小さな博物館となっているが、毎週水・土・日にしか開いておらず、一度土曜に行ったときもなぜか閉まっていた。見せる気があるのだろうか。また、門の右手には長方形の大きな建物がある。これは聖堂ではなく、修道士たちの僧坊かトラペーザ(食堂)のようだ。
門から入ってまっすぐに進むと、左手にいくつか掲示板のようなものが立てられている。内容としては修道院の沿革についての説明(もちろんロシア語)、そして古写真や絵画など。またその近くではいつも、小さなテントで蜂蜜を売っている人がいる。どうやら付属の農場で修道士たちが作ったものらしいが、これは昔ながらの「修道院領」と呼んでいいのだろうか?
その先はちょっとした広場となっており、真ん中に教会をかたどった東屋、そして屋根の下には小さな泉が水をあふれさせている。信徒たちがよくこの泉に向かって十字を切っているところを見ると、聖なる泉と考えられているのだろう。
広場の右手にあるのが、7全地公会諸聖神父聖堂である。何とも訳し辛い聖堂名だが、ここでは日本正教会による訳を利用した。東方正教会では、(1054年の教会分裂以前に)全てのキリスト教世界を対象として行われた7つの公会議(全地公会)のみを正統とし、カトリックが主催した公会議の権威は認めていない(従って、「全地公会」が不可能である以上は教義や聖書解釈の変更も行い得ない、というのが正教会の立場である)。この聖堂は、7全地公会すなわち初期の7つの公会議に参加した教父たちに捧げられているわけだ。
諸聖神父聖堂はイヴァン雷帝によって建設され、この修道院に初めて登場した石造りの聖堂、という歴史を持つ。また、アレクセイ帝時代にダニール公の不朽体が安置されたのもここである。ダニーロフ修道院で最も由緒ある聖堂と言えるかもしれない。ただし、現在の建築物は17世紀末から20世紀にかけて改築が繰り返されたものらしく、どの程度まで昔の面影を伝えているかは分からない。外観は、まず小さな玄関ポーチに続いて多面形の尖塔、その奥の本体部分は半球状のドームの上にやはり尖塔が突き出すというスタイルを取っている。2つの尖塔上には金色の丸屋根が輝いている。
この聖堂の特徴といえば、1階と2階がそれぞれ独立した礼拝所となっていることか。1階部分は普段閉まっていることが多いのだが、この前初めて入ることができた。電灯がちょうどろうそくのように薄暗く、天井が低いこともあって何となく「地下」の雰囲気が漂っている。壁に掲げられたイコンはいずれも伝統的な手法で描かれ、正面にあって奥の至聖所を隠しているイコノスタスも木製で、何となく質朴な印象を受けた。
左前方には彫刻を施した木の棺が置かれ、「聖父ゲオルギー」と記されている(詳細不明、かつての修道院長か?)。顔の部分がガラスであるため、布をかぶせられた遺骸が見えるようになっており、熱心な信徒はそのガラス上に口づけをしていた。キリスト教世界の聖骸信仰は、おそらく我々にとってなじみのないものの一つであろうが、これは文化の違いとしか言いようがない。また聖像画に口づけをする人も、多くの教会で目にすることができる。
2階部分も1階と同じく、柱がアーチ状に天井を支える伝統的な建築様式となっている。ただしこちらは、壁に青色を基調としたフレスコ画が直接描かれているため、白壁の1階と比べてまた異なった印象を受ける。主題としては聖人画が多く、殊に左の回廊はダニール公の一代記で占められているらしい。画法としては、やはりロシア古来のスタイルが用いられていた。
また、聖人画などの縁飾りも注目された。色とりどりの植物文様で、どことなくアラブの影響を思わせる。しかし同種のデザインは古代ロシア以来の伝統にもあるため、にわかには判断できない。また、柱の一隅にはかごに入ったジャガイモ(?)と魚の絵も見受けられた。聖堂というと宗教画だけがクローズアップされがちだが、古くはこのような自然画で教会を飾る習慣があったものだろうか。
ところで、これまで訪れた限りではこの聖堂に安置されているというダニール公の棺を確認することはできなかった。もしかすると、イコノスタスの奥にあるため一般信徒の目には触れないのかもしれない。(01.07.25)
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