ダニーロフ修道院2
7全地公会諸聖神父聖堂(それにしても覚えにくい名前だ)から泉のある広場を隔てた反対側(西側)には、トロイツキー聖堂がそびえ立っている。1833年から38年にかけて建設されたものだという。これに先だって何らかの聖堂が存在していたのかは、パンフレットにも解説を欠いていてよく分からない。
建築年代が比較的新しいためか、聖堂の外観は伝統的なロシア教会とかけ離れている。クリーム色をした方形の建物で、真ん中には巨大なドームがそびえ立っている──このドームが、ロシアの教会と聞いてすぐに思い出すような玉ねぎ型ではなく、きれいな半円形なのである(イタリアの寺院あたりにありそうだ)。その上、三方の入り口は古代ローマの神殿のごとき白い円柱で支えられている。同じく玄関ポーチ上部に描かれた聖人画はルネサンス絵画の特徴を持ち、これまたロシア教会には似つかわしくない。要するに建物全体が「ローマ趣味」とでも言うべきスタイルで貫かれている。中身が博物館や図書館であっても不思議ではないだろう。これまでに見たロシア教会の中では、かなりの変わり種と言えるかもしれない。
外観に対応して、内装もまた諸聖神父聖堂とは趣を異にしている。まず聖人画が、ロシアの伝統的なイコン画ではなく西欧の影響を感じさせるものである。より写実的で、色使いはカラフルになっている。インテリアも心なしかヨーロッパ風に見える。また、中央に位置しているドーム部分の窓からふんだんに光が入ってくる設計で、白を基調とした柱や壁と相まって聖堂内は非常に明るい。
パンフレットで紹介されている修道士たちの典礼は、ほとんどがこの聖堂を舞台としている。非伝統的なスタイルにもかかわらず、トロイツキー聖堂は現在のダニーロフ修道院で儀式の中心をなす場なのかもしれない。広さの面から言っても、諸聖神父聖堂より使い勝手がよさそうな気はする。
トロイツキー聖堂の西側には、緑がかった青色の瀟洒な建物が立っている。窓枠や柱が白く縁取られ、クレムリン内の宮殿を思わせる古典的なスタイルである。入り口のプレートにはロシア正教会対外折衝部と記されていた。ダニーロフは単なる一修道院ではなく、新生ロシア教会の本部として位置づけられているため、このような部局が設置されているのだろう。20世紀初頭の古写真にもそれらしきものが写っているので、以前からあった建物を使いまわしているのかもしれない。
また、対外折衝部の北側にはウラジーミル聖公の半身像が建てられている。右手に十字架を捧げ持ち、威厳にあふれた像である。しかしダニーロフ修道院とウラジーミル公に直接の関係はないはずだが、どうやらルーシ洗礼1000年(1988年)を記念したものらしい。83年にこの修道院が返還されたこと自体、1000年祭にあわせるという意味を持っていた。
そして対外折衝部の西隣、修道院全体でも最も西側には、見上げるほどの巨大な建物がそびえ立っている。玄関は中央に張り出し、その上部に描かれた大きなキリストの顔が印象的である。これは、同じくダニーロフ修道院内にあるというシノド(総主教直属の協議機関)か総主教公邸か、あるいはその双方を兼ねたものであろう。何となく近づき難いような雰囲気があって、中までは確認していない。
トロイツキー聖堂と対外折衝部の北側に建物はなく、芝生や植木・花壇で飾られた美しい空間が広がっている。やはり古写真を見ると、かつてゴーゴリなどが葬られていた墓地はこの場所にあったようだ。略史にも書いたとおり墓地はソ連時代に撤去され、その後修道院が活動を再開してもよみがえることはなかった(墓地がよみがえる、というのもおかしな表現だが)。
この空間の一番東側、トロイツキー聖堂のすぐ北側には、ベンチが円形に並べてあって参拝者の休息用にあてられている。何となく、巣鴨・高岩寺(とげぬき地蔵)の境内を思い出させた。座っているのが主にお年寄り、という光景も同じである。ただしダニーロフの方がはるかに人数は少ないし、「俗っぽい」雰囲気も少ないような気はする。
そこから西には小さな礼拝堂があり、その脇には地下室への入り口が設けられていた。もしかすると地下が納骨堂となっているのかもしれない。また、礼拝堂の周囲には2つほどの墓が並んでいる。何らかの事情により移されずに残ったものだろうか。
同じ礼拝堂のすぐ北側、修道院を囲む壁の近くにはいくつかの墓石が並べてある。これも、墓地のものであったことは間違いないだろう。壁には葬られていた数名(有名な文化人ばかりである)の名を記したパネルがはめ込まれていた。
しかしせっかく残っている墓石を、このような目立たない場所で雨ざらしにしておいてよいものだろうか。しかもよく見ると、古い墓石に混ざって新しい石碑が二つおかれている。表面には「この場所に、総主教アレクシー2世の命により聖ダニール公の像が建てられるべし」「礼拝堂が建てられるべし」と読める。実際、この修道院から少し西に行った交差点には像と礼拝堂があるので、これらの石碑は建設が開始されるまで予定地に据えられていたものだろう。しかし今は役目もすんだので、ここに置かれているらしい。そうするとますます、不要の石材と共に片隅に追いやられている墓石が気の毒に思われる。
それだけではない。同じ場所には赤みがかった板状の大きな石も置かれている。表面には十字架が彫られているが、独特の植物文様で飾られ、上部には葡萄も描かれたユニークなものである。説明書きを見ると、1988年(やはりルーシ洗礼1000年にあわせてか)にアルメニアのカトリコス(総主教)・ヴァズゲンからロシア正教会に対し、友好の印として送られた13世紀の石の十字架なのだという。文化財として貴重であることは申すまでもないし、またせっかくの贈り物をこのような場所に放置(と言ってよいと思う)しておく理由もよくわからない。せめて雨風の当たらぬ場所に移してほしいものだ。
修道院の敷地内は以上であるが、トロイツキー聖堂と対外折衝部との間には修道院の南出口がある。例の頑丈な城壁に作られた、非常に小さな門である。「ヴォスクレセーニエ聖堂(正式にはХрам Воскресения Словущегоだが、訳し方が分からないので仮にこう表記しておく)はこちら」と標示されているので、行ってみることにした。
門を出るとまず、すぐ正面に大理石造りのとてつもなく大きな建物が目につく。フェンスと生け垣で囲われているのであまりよくは見えないが、その前面はヨーロッパ風のよく整えられた庭園になっている。これこそが、修道院付属のダニーロフスキーホテルである。モスクワにあるホテルでも高級なものとして知られ、レストランも結構なものであるらしいのだが、入ったことがないのでよく分からない。モスクワ最古の修道院と近代的な四つ星ホテルという取り合わせには、ちょっと面白みを感じた。
ヴォスクレセーニエ聖堂は、ホテル前庭の脇を通って右に曲がったところにある。この聖堂もやはりネギ坊主型ではなく、お椀を伏せたようなドーム状の丸屋根を持っているため、伝統的なロシア教会とは少し違って見える。建築年代・来歴など一切不明。ダニーロフ修道院の敷地よりは外にあるものの、何のつながりもないということは考えにくい(ホテルも含め、この場所はかつてダニーロフの所有地だったのではないか)。現在は修復中のようで、クリーム色の外壁はペンキの色も鮮やか、所々には作業用の足場も残っている。
内装もこれに応じてか、聖像画や装飾品などに「西欧」の雰囲気が感じられる。この日はたまたまお坊さんが信徒を前に説教をしており、イコノスタス中央の扉が開いていたのだが、その中央に見えるのはキリストを描いたステンドグラスである。ロシア教会とステンドグラス。ちょっと意外な取り合わせと言えるのではないか。
また、入り口から右手には八角形の井戸のごとき設備があった。大理石製のごくきれいなもので、上部は瀟洒な天蓋で飾られている。これはおそらく、産まれた子供などに洗礼を施すためのものであろう。東方正教会では全身を水に浸す方式の洗礼を採用しているため、こうした設備が適しているわけだ。しかし実物を見たのは初めてである。
中をのぞき込むと、どうやら必要なときすぐ使えるよう水道が引かれているらしい。また、底まで下りていくために階段と手すりが作られていた。例えは悪いが、何となく銭湯などにある小型の浴槽みたいだ。泡とかが出てくるやつ。
修道院については以上の通り。最後に、例の小冊子に載っていた寺宝(?)のうち、2つのイコンを紹介しておきたい。もしかするとどこかの聖堂で目にしたのかもしれないが、それと気づくことはなかった。
まず一つはウラジーミルの聖母像。幼子キリストを抱いているので、より正確には聖母子像と言うべきかもしれない。16世紀半ばの作というから、イヴァン雷帝時代のものであろう。「ウラジーミルの」と呼ばれるのは、かつてウラジーミルの街に有名な聖母のイコンがあり、それと同じスタイルで描かれているためらしい(キリストが左腕で聖母の首にすがり、頬を寄せ合っている形)。さらに、一コマずつ聖母の生涯を描いた小さな絵がその周囲を取り巻いている。これもイコンにはよく見られる手法だが、考えてみればこれはマンガを先取りしたスタイルかもしれない。そのわりにロシアでマンガが流行っていないのはどうしてでしょう。
もう一つは三本腕の聖母。これは17世紀末から18世紀初め頃に描かれたもので、ウラジーミルの聖母に比べて伝統的なイコン画法からは少し外れているように見える。が、何よりも奇異に感じられるのは、その名の通り聖母の腕が三本描かれていることだろう。すなわち左手の一本は胸の前にあり、もう一本はキリストを抱いている。残念ながらパンフレットを見ても、何らかの奇蹟譚が記されているわけではなく、理由は知り得なかった。(01.07.28)
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