モスクワ考古博物館

 有名な赤の広場のすぐ西隣、前にご紹介した歴史博物館のはす向かいという「一等地」にあるのにもかかわらず、この博物館をご存知の方はそう多くはないかもしれない。まず第一に、考古博物館がオープンしたのはモスクワ850年祭にあわせた1997年のことで、まだ開館後間もないと言ってもいい。第二に、この博物館は地面の下に作られていて、外見的にあまり目立っていない。すぐそばを通り過ぎても気づかない場合すらあるだろう。しかしながら、モスクワの歴史に興味のあるほどの人間なら、この魅力的な博物館を訪れぬわけにはいかないのである。

 この考古博物館が誕生した理由は以下の通り。モスクワ850年祭つまり1997年には様々なイベントが計画され、考古学博物館オープンもその一つだったのだが、おそらくそれよりも目立っていたのはマネージ広場の地下アーケードが完成したことであった。マネージ広場というのはクレムリンのすぐ西側にある、大きな広場の名である(考古学博物館もその一角に位置している)。ロシアも遂にここまで来たか…との感慨を催させるほど、「西側」の雰囲気に満ちたきらびやかな地下街だが、その工事にあたっては様々な発掘作業が行われた。歴史ある古都・モスクワではどこを掘っても遺跡にぶち当たらないわけにはいかないし、ましてや街の中枢・クレムリンのお膝元で、16〜18世紀には商業地区として賑わっていたマネージ広場である。当時に比べ、現在の地面は4メートルから9メートルも堆積しているという。調査が行われたのは、当然といえば当然であった。
 発掘品の内容は多岐に渡るものであり、とりわけ大きな遺物としては当時この場所にかけられていた橋なども発見されている。それらを保存・展示するために、マネージの発掘現場に新しい博物館、つまりこの考古博物館が建てられたわけだ。ちなみに考古博物館は、モスクワ市歴史博物館の分館という扱いになっている。

 赤の広場への入り口・ヴォスクレセンスキエ門から見るとはす向かい、ホテル・モスクワのすぐ前に、あまり目立たないが地下へと通じる階段がある。もちろん考古博物館はこの下にある。手すりの部分に車椅子用であろう、リフトのためのレールが設けられていたのが目新しかった。ロシアでもこういう設備に意を用いるようになってきたのか。また、階段脇では巨大なベンチレーターが盛んに排気を行っていた。
 階段の途中にある窓口で券を買う。ロシアの博物館は理不尽に高い「外国人料金」を設定していることが多いのだが、ありがたいことにここでは料金差はない。そこからまた少し下ると、博物館の入り口が現れる。荷物を預けるクロークは、なぜか機能していないことが多い。
 入り口から今度は上り階段となっているのだが、途中で巨大な礎石が(発掘した状態のままに)展示されている。かつてここにあったヴォスクレセンスキー橋(後述)の遺跡である。しかし、もう少し上ればより完全な姿で橋を見られるので、先に進むことにしよう。

 さて階段を上り切ってしまうと、あまり大きくもないホールのほぼ全体が見渡せる。まず入り口付近に小さな展示場があり、そこからの順路はまたまた階段を下って進むことになる。しかし何と言っても、中央に位置する巨大なヴォスクレセンスキー橋に目を奪われずにはいられないだろう。かつてこの場所にはネグリンナヤ川が流れており、クレムリンの西側を守る水堀となっていた(詳しくはこちらを参照)。ヴォスクレセンスキー橋はネグリンナヤに架かり、赤の広場の西門・ヴォスクレセンスキエ門へと通ずる重要なルートの一環をなしていた。しかし1812年の(ナポレオン遠征による)大火からモスクワ市が復興する過程で、1819年にネグリンナヤ川はパイプの中に収められ、地下へと埋め立てられてしまう。当然のことながら橋もその使命を失い、今回発掘されるまで土の中で眠り続けてきたのである。
 橋はレンガ造りの堂々たるもので、アーチ状の橋桁が力強く連続している。ただし一つのアーチには何本もの丸太が打ちつけられ、完全に閉ざされていた。館内にあった復元ディオラマを見ると、どうやらネグリンナヤの流れは埋め立てられる前から非常に細くなっており、いくつものアーチが必要なほどではなかったらしい。だからといってわざわざ塞がなくてもよさそうなものだが。
 またレンガ製の橋が作られる以前には、白石造りの橋が架けられていたようだ(17世紀末頃、ロマノフ朝初期の時代か)。その礎石部分が、レンガの橋と並んで残されている。一つ一つの石はかなり大きく、また人目につきにくい下部が荒削りのゴツゴツした石、上部がきれいに削られた方形の石となっているのも面白い。また、白石→レンガの変遷はちょうどクレムリンの城壁がたどった道筋と同じで、これも興味深いことであった。しかしモスクワ周辺には石切場になりそうな山もないのに、どこから白石を工面してきたものか不思議である。

 それでは順路に沿って見学を開始しよう。まず入り口近くには、かつてマネージ広場に建てられていたというモイセーエフ女子修道院からの発掘物が展示されている。モイセイすなわちモーゼに捧げられた修道院で、16世紀末から18世紀にかけてクレムリンのすぐ近く・マネージ広場という「一等地」に存在していた。大きな墓石の他に様々な十字架や陶器などが並べられているが、中でも修道士の使った頭巾などの布類が保存状態もよく残っているのに驚く(もしかするとオリジナルではないのかもしれないが)。頭巾に刺繍された天使の絵は、まるで子供の絵のように可愛らしく、それが一種独特の雰囲気を醸し出していた。
 その先は階段を通じて下方の展示場へと向かうのだが、その途中の壁面に、発掘風景が写真パネルで紹介されていた。あちこち掘り返されたマネージの地下から古い建築の礎石や柱がいくつも顔をのぞかせており、まるでダンジョンのよう。ポンペイの例を引くまでもなく、地下に埋もれた都市というのは何とも想像力を刺激するものだ。しかしもちろんモスクワは火山の噴火などによって滅びたわけではないのに、これほどの遺跡が埋もれているとは驚きである。地面の堆積は想像以上に威力の大きなものらしい。
 一番下まで下り、ヴォスクレセンスキー橋の手前から見学を始める。まず、橋の向かい側に細長い丸太が並べてあるのが目につく。これはかつての舗装道路の跡である。悪路は最早ロシアの伝統といってもよく、特に春と秋の泥濘は広く知られている。そのため、ロシアでは昔から木材を敷いた舗装道路がよく利用されており、発掘によって再び陽の目を見ることも多い(特にノヴゴロドの発掘調査では有名)。ここに展示されているのは大トヴェルスカヤ・ツァールスカヤ街道で発掘されたもの、17世紀の遺物という。また復元された舗装道路の上には荷車の破片などが置かれていたが、これも同じ発掘現場で見つかったのだろう。
 舗装道路の奥、ヴォスクレセンスキー橋に沿ってはいくつかのガラスケースに考古資料が展示されていた。いずれも15世紀から17世紀のものらしい。例えば金属製の分銅、ハサミの一部、木製のそりの脚、また樹皮で編まれた百姓わらじやカゴ、壺の類など。いずれもかつてモスクワに生きた人々の生活を物語る、貴重な遺物である。奥のケースには、19世紀に埋め立てられる寸前のヴォスクレセンスキー橋を描いたイラストもあった。
 興味深いのは、発掘された貨幣の展示。1646年製というスウェーデンの貨幣(銅貨?)は分厚い上に大きく、まるで何かの大会で与えられる銅メダルのようだった。一方で16世紀初頭のロシア貨幣は、小さい上に薄っぺらくて何が書いてあるのかよく分からない。形もいびつで、まるでヒマワリの種か何かのように貧弱な印象を受けた。本当に流通していたのだろうか?もっとも、当時はきれいに輝いていてありがたみもあったのかもしれないが。

(続く)

(01.08.05)


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