宋銭流入・銭の病
 銭の病とは『百練抄』治承三年六月の条に「近日。天下上下病悩。號之銭病」
と記された病の事で、当時の人々が流行した病を海外から流入する銭貨によるも
のと考えている事が分かります。
 この銭の病と称されるほど治承年間には既に多くの銭貨が京に集っていたと云
えるでしょう。
 銭貨が流通する以前、貨幣の代わりに支払い方法として米・布などの一般的等
価物(現物貨幣)が主流でした。
 それに代わって銭貨が日本で誕生したのは和銅元(708)年に鋳造された「和同開
珎」からで畿内を中心として流通しました。朝廷は蓄銭叙位法・献銭叙位法、雑
徭や調を銭で收める事を進め銭貨の普及を促しました。
 朝廷は国家財政の健全化の為に銭貨を流通させることによって徭役労働力の確
保に努め、中国王朝に習って貨幣鋳造権を国家の大権として有したのです。
 銭貨は世界的に見れば東アジアで流通した銅を中心とした初期的貨幣で、その
原質の価値よりも鋳造した政府の信用によって価値が定まる信用貨幣でした。
 貨幣には様々な機能があり、近代貨幣論などを見れば
  @ 決済手段
  A 価値尺度
  B 価値貯蔵
 の三つに分類されます。
 しかしこの時代、銭を鋳造する為の銅の供給がままならず銭貨が流通する素地
を造りつつも銭貨の絶対的な供給量の少なさによって支払い方法などが銭貨から
米・布などの一般的等価物(物品貨幣)へ割合が増えるという逆行作用がおきました。

 当時の銭貨の流通を知る上での方法の一つとして売券を調べることが挙げられ
るでしょう。
 先の表は平安時代の売券をの銭貨の使用率を一覧化したものですが、売券を調
べると長保三(1001)年〜康和二(1100)年では山城・大和における銭貨の利用率は0
%ですが、別の見地から11世紀初頭まで畿内を中心として銭貨が流通していた
事が証明されています。
 さて銭貨が東アジア特有の初期的貨幣であり、信用貨幣であるにも関わらずそ
の供給量が国家よって保証されず且つ質の低下によってその信用貨幣としての保
証が成されない為に崩壊したと云えるでしょう。
 しかし一般的等価物は年毎による質の高下や長期間に渡る貯蔵などが困難であ
り、商業活動への制限ともなります。
 古代中世における商業活動の発展は、大陸からの渡来銭はこうした状況を踏ま
え大いに歓迎された使用されました。
 大陸からの渡来銭が流通した事にはこれら銭貨の利便性が既に知られていた事
と中国商船の頻繁な来航、且つ九州を中心とした宋人街の形成などによって九州
を中心として次第に畿内に流通して云ったのではないでしょうか?
 この宋銭の特徴は銭貨が信用貨幣であるにも関わらず国家から保証を持たずた
だ単に利便性などからの使用であり、且つ日本人が宋銭を「買う」と云う行為に
皇朝十二銭とは違う側面が考えられます。
 つまりは銭貨自体が前近代の貨幣として通用したいた事は事実ではありますが、
皇朝十二銭と異なり自国の国家からの保証を受けず「物品」として大陸より仕入
れられた事を考えると一種の一般的等価物の延長ではないかと考えられます。
 一般的等価物は簡易貨幣であり近代貨幣の条件総てを有するものではなく種々
の一般的等価物(米・布)などが相互にある利点を補いながら利用されていたものを
次第に宋銭が凌駕し、鎌倉時代には日本全国に行き渡り商業活動の発展に著しい
貢献をしたと考えられます。
 鎌倉時代において前代の一般的等価物を凌駕し、貨幣としての役割を統合した
宋銭は鎌倉時代には貨幣としての機能を果たしていた事は事実です。
 しかしながら、あくまでも大陸からの供給によると云う不安定要素は拭いきれ
ず室町時代に至っての商業活動のさらなる発展に際し、その宋銭故の事情が足枷
となり宋銭流通は次第に終焉に向かっていくと考えられます。
 後に示した表は鎌倉時代における銭貨の流通の割合を売券で調べたものですが
如何に銭貨が日本中を流通し国内の商業活動の血脈となって使用されたかが分か
るでしょう。

 こうして日本に流入した宋銭ですが、宋銭にも各年によって鋳造量の変化や、
日本への輸出量にも増減があります。
 函館市志海苔において発見された総数38万枚に及ぶ埋蔵銭は古銭の上限とし
て明代の洪武通宝(1368鋳造)があるので鎌倉時代ではありませんが総数のなかで
も宋銭の割合は大きく、特に多いのは皇宋通宝(1039鋳造)の47031枚、元豊通宝
(1078鋳造)の43009枚、元祐通宝(1086鋳造)の33904枚、などがあり、鎌倉時代に
おいてもこうした宋銭が多く流入していたと考えられます。

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