上横手雅敬「封建制と主従制」(『岩波講座日本通史9 中世3』1994)の要約

一 封建制について
 封建制と主従制ではどちらが包括的な概念であろうか?主従制は様々なものを媒介として結ばれ、土地だけはない。その意味では封建制より主従制の方が広義である。しかし、封建制はもっと多義的に用いられており、主従制と解される場合の封建制は多義にわたる封建制概念のなかの一つに過ぎないと考えられている。
 封建制の多義性をいくつかの概念として分けると
 (一) 中国的封建観(儒学的見解)
 (二) 法制史的理解(レーン制)
 (三) 経済誌、特に史的唯物論の見解
 (四) 社会史的封建制概念
 に分けられる。
 戦後の学界に於いては、ある時期まで史的唯物論的な(三)として封建制をとらえる考え方が主流であったが、1960年代末頃から史的唯物論による日本史研究が退潮をみせるなか、黒田俊雄はマルクス主義史学の直面した問題に対し状況を把握し打開策を提示した。
 それが単系的発展段階説と土台・上部構造論を否定し、歴史の全体的把握という点に史的唯物論の再生である。しかしこの提案に対して学界はひどく冷淡であった。

 マルキシズム史学と歴史理論が衝突し、かつ封建制にも大きな役割をもつ問題として、ライシャワーやホールらの近代化論との対決がある。
 非西欧の中で日本のみが革命や植民地を経ることなく近代化に成功した唯一の例として日本が発展途上国のモデルにしようとする動きがアメリカの研究者の中で起こり始めた。
 それが1950年代末の事である。
 特に中心人物であったライシャワーの著書には日本の封建制に対する多くの短絡的思考が見られ、アメリカ特有の歴史を現代における実践において有効な教科書とする見方に立っており、歴史と現代との関連づけはかなり粗雑といえるだろう。

 日本の封建社会といえば、中世と近世がそれにあたると通常考えられている。しかしこの各時代においては多くの違いがあり、中世と近世は断絶しているといえよう。
 多くの先学はこの異なる封建制をうまく説明する為、封建制の多義的な概念を組み合わせようとした。その為、様々な混乱が現在まで続くことになる。その代表的な例は高等学校の歴史教科書であり、鎌倉幕府を「封建制に基づく最初の政権」ととらえておきながら、封建制にもとづく政権がどうなったか納得できる答えを明示しない。結局中世と近世を同じ封建制という概念で括る事自体無理があるのである。

二 主従制について  まず主従制の概念を簡単に整理すると
 (一) 鎌倉殿−御家人
 御家人の領主権は、幕府権力に対する独立性が強く、この主従関係は絶対随順的ではない。
 (二) 御家人−家人
  郎従の強い隷属制が特色。
 となる。
 主従制を論ずる時、武士・所領・軍役の三点がセットとなっていると通常考えられてきた。しかし、主従制は武士のみに存在するものではないし恩賞が所領だけとも限らない。
 ここでは主従制の問題を特に恩賞の時代的変化にスポットをあてて考える。
 主従制における御恩として重要なものには所領の他に官位がある。この官位は元来君臣関係というべきものだが、実質的に類似的が多い。
 例えば平将門は「新皇」となった時、「宣旨」を出して板東諸国の国府を命じた。元は朝官である国司が新皇の下で職制に転じている。
 所領が恩賞に用いられる以前は、財物が充てられる事が多かった。合戦には公戦と私戦があり、公戦では主将が部下の勲功を朝廷に上申し、それに基づいて朝廷から官位が給与される。私戦の場合では敗者から勝者への戦利品が恩賞となった。
 こうした古代の戦いでは所領が与えられる事がなかったが、逆に言えば中世以降の所領給与は所領の形成が大前提となり、所領が御恩の対象となるレーン制の成立は歴史上の一つの段階と考えられるだろう。
 所領の最初の大量没官は保元の乱の際破れた藤原頼長・平忠貞・平正弘らの所領である。この時の変化とは荘園の本家が変わるという事だけであり、荘園内では格別の変化は無かった。
 実質的な所領給与が制度化されたのは源頼朝以後であり、その成立は政治的事情によるものである。
 治承・寿永の内乱によって平家は滅亡し、平家没官領は鎌倉幕府の手によって敵方所領として没収され、御恩として御家人に給与された。また、もう一つの恩賞である官位の推挙も行われた。
 更に天皇家である後鳥羽上皇との戦いになった承久の乱で勝利した幕府は朝廷の軍事権を剥奪し、京都の治安維持も六波羅探題をはじめとする幕府の軍事力・警察力によっておこなわれるようになった。こうして軍事・警察権は幕府に一元化されたのである。
 そうした事情の中での蒙古襲来にあたり、幕府が御家人だけではなく本所領家一円地の住人に対しても動員対象とし、また恩賞の対象としたのも自然の流れといえるだろう。
 承久の乱の際、武士への所領給与の他に神社に対する所領寄進も併せて行われたが、蒙古襲来の際には人と同様に神も幕府に奉仕し、恩給を与えられるようになった。それだけ寺社家が幕府の統制下におかれた事を物語っている。
 こうしたように幕府に一元化された軍事力を朝廷が回復する事は容易では無かった。
 後醍醐天皇が倒幕を進める際、武士社会を深く理解し綸旨による所領給与を約束したという事は、逆にそれだけ武士個人の関心を引き留めるための恩賞として所領給与の契約的側面が強くなった事を示している。
 後醍醐天皇や建武の新政について様々な評価があるが、主従制の理解に基づいていえば、天皇と武士は所領を媒介として契約制の強い主従関係を結ぼうとしていたのであり、その意味においては、天皇とその政治を「封建王政への志向」とみてよいだろう。

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