後白河政権
・・和漢の間に比類無きの暗主なり、謀反の臣傍らに在るも、一切覚悟の御心無し、
人がこれを悟らせ奉ると雖も、猶以て覚えず、かくの如き愚昧は古今未だ見ず、未だ
聞かざるもりなり・・(玉葉)
という風に雅仁(後白河帝)を見ていたという藤原信西の政治構想についてです。
信西は雅仁の乳父として雅仁が息子の守仁のつなぎとして帝位についた時から政治
手腕を発揮します。
信西は新院・崇徳院−藤原頼長という敵対勢力を平氏・源氏の武士団を利用し、保
元の乱で滅亡させ、死刑まで復活させて武士を斬首しさらに頼長などの所領を天皇直
轄領の後院領に編入し、天皇の財政基盤を拡充させました。
その上で保元の新制を定め、古代末期からの混沌としていた未完成だった院政期か
ら中世の骨子を造り上げました。
・・・九州の地は一人の有つところなり、王命の外、何ぞ私威を施さん・・(兵範記)
とあるように王権による日本国の全支配を宣言し、この思想に沿って荘園を整理し
悪僧・神人の濫行を取り締まり、記録所による裁判の振興や都の整備、内裏の再興を
中心として天皇支配の下に新たな体制が模索され実行されました。
ここにおいて中世国家の基本的な枠組みが確立され、律令によって整然とした国家
システムが機能しなくなっていた段階で、各地で生まれた荘園を基盤とする各種権門
・所領を開発して武威を発揮する武士団・社会の変動の中で神仏に助けを求めつつ活
動する僧や神人などを天皇の下に統合し、配置しようとしたのが信西でした。
しかしながら急激なシステムの変化に反発をもつ者達により信西は倒され平家政権
につながる訳です。
ここに雅仁政権を第一期を見ることが出来ます。
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