頼朝の奥州討伐の意義
治承寿永の内乱期に行なわれた鎌倉御家人になるというのは武士以外にも門戸を開
いていました。
もともと、武士と云うのは芸能者の一種(もしくは特殊な職能を有した者)で、保元
平治の乱とは違い、各総力戦となった治承寿永の内乱では武士以外の者つまり武器を
有している者をも参加させた訳です。
では武士と言うものはと云えば都市的であり「職業的弓射騎兵の戦士」です。です
から在地領主からの武士への発展とは簡単には言えないようです。
で、これらの武士以外の者をも内乱期に於いて御家人とした頼朝としては自分の築
いた勢力(1190年までは勢力、それ以降は幕府)を確実なものとするために再編成する
必要性が有ったわけです。
そして内乱期御家人制を解体し再編成・明確化する為+頼朝の正当性を主張する為
に「奧州討伐」は必要だった訳です。
この頼朝の正当性とは、頼朝が旗揚げ当初新田氏等が「我こそ源氏の嫡流なり」と
称して軍勢に加わらなかったのですが、鎌倉に居を置き自分を嫡流と云う認識を他の
武家らに植付ける為に「頼義故実」を行ない鎌倉殿権威を確立しようとした訳です。
頼義と云えば前九年合戦で安倍氏を討伐した源氏の棟梁ですが、この頼義と同一行
動を行ない頼義の正統的後継者として貴種性を確立させたのです。
ですから、奧州討伐に於いて奥州藤原氏の討伐等は二次的な意義で有って、別に義
経云々などの事も関係ない。本来は「前九年合戦」の再現だったようです。
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