公卿日記
「玉葉」「権記」「中右記」「小右記」「山槐記」「台記」「吉記」「兵範記」
・・・・etcと平安から公卿の日記は多数残されています。
本来の公卿日記は有識故実を書き綴り子孫の為に残しておくものとして利用され、
良い例では藤原宗忠は自分の日記「中右記」の中で
今日、私の日記の部類が終わった。儀式を行うために抄出したのである(中略)
我が家の為にどうして失念に備えないでいられようか。老骨に鞭打って部類した
のである。絶対に他人に見せてはならない。(要約文)
と書いて有るように子孫にとっては冠婚葬祭礼儀辞典やガイドブックの類となりま
した。
まぁそれだけ公卿の政治には有識故実が欠かせないと云う証明の一つでしょう。
そして当時の日記というのは現在の形と多少異なっていました。当時使用されてい
た暦(具注暦)には吉凶などの注が具体的に書かれていてその暦には日記を書く部分と
して行間が空いているのでそこに書くものだったようです。
書く時間は基本的に次の日の朝食前。官庁の出勤時間がAM6:30前後で起きるのが
AM3:00くらいですからその間に書いていたようです。
ただ殊に事項が多くなれば帰ってきてからと云うことになりますが必ずその日に
は書くとのことです。
ですから昨日の出来事+故実についての事例が多いようだと、字が重なったり細か
くなったりと、本物の日記が展示される機会は少ないですが早朝から参内等の準備で
忙しい中日記を書く公卿の姿を垣間みる事が出来ると思います。
日記が何故ここまで文献史学で重用されるかというのは当時の感覚・認識を知ること
が出来、主観的ながらも多くの時事を知ることが出来るからですね(^^;
+嫌いな公卿の悪口等と現代の日記と大して変わらない等身大の公卿の姿が見える
事や筆跡に拠ってその公卿自身を知ることが出来るかな?(これは古書学の範疇かも)
ちなみに歴民博に複製として展示されていたのは「御堂関白記」「権記」で、これ
らの公卿日記の名称と云うのは極官+通称等によって付けられました。例えば「権記」
作者で三蹟の一(通称・権蹟)と呼ばれた行成は極官として権大納言となったと理由で
「権記」と付けられたと云うことです。(極官=その人の最高官職)
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