蒙古襲来
蒙古襲来とは当時、『異國合戦』『蒙古人襲来』『異族蜂起』などや『文永十一
年蒙古合戦』『弘安四年蒙古合戦』と記された日本に於いては中世で唯一の対異民
族全体的戦争であり、日本中世に於ける最大の国難と云えるでしょう。
その蒙古襲来は鎌倉時代の後期においても無論、重要なキーポイントとなります。
まず、14世紀の国際環境を考えてみると「パクス・モンゴリカ」と云う武力に
よって保証された平和とも云われています。
チンギスハーンの出現によってユーラシア大陸を縦断する大帝国となったモンゴ
ル帝国はチンギスハーンの死後も拡大の一途を辿りました。しかしながら緩やかな
連合国家となったモンゴル帝国の東アジアのハーン、フビライは中華的な帝国をめ
ざし近隣諸国との戦争を行いました。
対日本に対しても同様にその一環として行われ、世に云う「文永の役」「弘安の
役」はそうした世界的状況下で行われた戦争と云えるでしょう。
この二つの対外戦争は台風の時期と重なった事や、モンゴル軍内での指揮系統の
不統一、高麗・江南などの支配下に收めた兵士の士気の低さなどもあって成功しま
せんでした。
しかしながらこの二度にわたる対日本戦争の失敗の後も、フビライハーンは第三
次遠征を計画しましたが帝国内、特にベトナムや江南などでの大規模な反乱などで
頓挫し、「弘安の役」以降、モンゴル軍が日本に攻めてくることはありませんでし
た。一方日本に於いては平安時代より萌芽し始めた排外主義的対外観は「神風」な
どに象徴される神国思想に集約されていき中世に於ける対外観を形作って行きまし
た。また、モンゴル帝国に壓迫された江南からは多くの大陸僧が日本に渡来し亡命
をしました。この大陸僧の多くは禅僧であり、鎌倉時代に一大発展を遂げた禅宗に
寄与した事は云うまでもありません。
国内に目を向けてみると、一度目の元朝(モンゴル帝国)からの牒状が太宰府に届
いた際には既に太宰府の機能が幕府に取り込まれていた事もあり、まず鎌倉に届い
てから京都の朝廷に送られるコースがこの後の元朝や高麗からの牒状がもたらされ
た際に同様にの経由方法をとることとなります。
本来、外交権は朝廷の権限でしたがこの時代には実質的に幕府が権限を握り、二
度目の元朝の牒状がもたらされた際には朝廷が返牒する決定をしたのにも関わらず
幕府はこれを退けていることからもそれが解ります。
そして日本が外敵を抱えた状態で幕府は二度の元寇に際して権力強化によって事
態の収拾を図ろうとします。それが本来西国への権限が及ばなかった幕府の積極的
介入の表われてある公家・寺家などの荘園に対する本所一円地への介入が一番に挙
げられます。
この事によって幕府は西国の御家人ではない武士階級を対外戦争の名の下に編成
しました。
また、朝廷の権限であった全国寺社への祈祷命令をも許可されてします。
中世に於いて戦争には地上に於いて行われる人々の戦いと、天上社会に於いて神
々が行う「神戦」と呼ばれる戦いがあり、最終的にはこの神戦が戦局に影響を及ぼ
すと考えられていました。
この神戦を行う際には各寺社に命じて神に戦いを行ってもらう事が必要となりま
すがこの権限を幕府は得た事によって寺社への祈祷を命ずる立場になりますが、こ
の事によって恩賞を寺社家へ多くする事になり、引いては元々、対外戦争であった
元寇において恩賞地が少ない事情もある中での実際に戦争に駆り出された御家人達
への恩賞が減り、御家人が困窮していくという事態が起こります。
この御家人の困窮には元寇だけが原因ではなく、貨幣流通の浸透などによって借
金の形として土地を奪われる御家人なども多く、御家人の困窮は幕府の根本的な問
題でもありました。
そして元寇と切っても切り離せない問題が「悪党」の問題です。
「悪党」とは本来、中世の裁判用語として用いられ貞永式目では「夜討・強盗・
謀反人」などの国家的犯罪者を規定した用語ですが、元寇を期に拡大解釈されて行
きます。
本来の上記のような規定の他に、対外的緊張の度を強めていくにつれて「神仏に
敵対する異類異形」の輩と云う意味が強くなり、強盗・山賊・海賊などの反社会的
のグループを国家的秩序を乱す神敵・仏敵として宗教的な「悪」とされ、元寇の防
備と共に悪党の洗出しが強まり、戦争時の国内秩序維持を目指す幕府の標的とされ
ました。
これら悪党は借上が馬借などが武装する事などによってそう呼ばれる輩もおり、
また、困窮する御家人が悪党化するケースも多くなりました。
こうした幕府が管轄する土地、つまりは御家人が与えられている土地は減少して
行きます。
この事態を把握するのもまた、元寇に際して土地台帳を幕府が製作した際にわか
った事で、二度の元寇の後に行われた「弘安新政」はこれら国内の社会状況を解決
するために朝廷と幕府が一体となって行われた政策です。
しかしこの「弘安徳政」によっても事態は打開されませんでした。
元寇が日本に与えた影響は、対外的には排外的思想を増大させ国内的には幕府の
権力の矛盾を浮き彫りにすることによって、最終的には幕府の滅亡の引き金ともな
りました。
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