『大日本史料』の手引き
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[はじめに][史料編纂所とは][『大日本史料』の使い方][史料編纂所図書室の利用方法]
はじめに
 たとえば、ある事柄に接して(大河ドラマを見て興味を持ったもよし、光栄の歴史シミュレーションではまったもよし)「歴史を調べてみよう」と思った場合、進むパターンとしては概説書を読む→個別の研究論文を読む→原典である史料を読むと云う事になるだろう。(まぁここまでいくのは希有な事だろうが)
 そんな中で最終的な原典である「地の文書」つまりはミミズの這った様なくずし字で書かれている古文書に接して読むことが出来るというのはまず無理な話で、その為にも各種の史料が昨今は活字化が進み便宜が計られるようになって来ている。

 その史料集の中で『六国史』(勅撰の六つの国史、『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の事)の後を引き継ぎ国家事業として刊行されているのが『大日本史料』であり、総ての編纂が終わるのに優に千年はかかるであろうといわれるくらい「ちょー」が付く遠大な計画で、それだけでもこの『大日本史料』のスゴさが解っていただけよう。
 またこの『大日本史料』は云わずと知れた、日本史をやる上で必須のアイテムである、とその筋では良く聞くがその言葉には確かに間違いはない。
 だが、この史料の知名度は日本史を「やっている」者以外にどれだけあるのか、またその使い方がどれだけ理解されているかはとても不明である。
 それに各大学の史学科でどれだけの事を教えてくれているかは、私の経験則からいって不安なものだし、更に大学に所属せず所謂「在野」で日本史を調べている方々にとっては・・・、と思える。
 またどの学問でもそうだが研究者というのは、自らの研究領域の「用語」というものを自明の事として話す事が多い。歴史学が他の学問より間口が広く一般の人々に接し易いものであるにしても、だ。

 この「『大日本史料』の手引き」はそうした状況を鑑み、歴史をちょっとでも本気でやろうと思っている人たちに、史料編纂所の歴史から『大日本史料』の使い方の説明、更には現在編纂に携わっている研究者の方からその編纂に対する考え方を聞き、それを理解して貰うべく製作したものである。
 『大日本史料』はたいていの公立図書館、また大学図書館に所蔵されており、人々に使われる事を待ち望んでいる。ここが歴史をやろうとする人に対して、調べる手掛かりとなる『大日本史料』を身近なものとすることができれば望外の幸せである。

史料編纂所とは

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 現在の史料編纂所は東京大学の附置研究所である。東京本郷にある東京大学のキャンパスに赤門をくぐって入ると左手に見える建物がそれで、元々の由来と辿ると東京大学よりも歴史が古いという曰く付きの研究所である。
 詳しく説明すると、それは『群書類従』でも有名な塙保己一が寛政五(1793)年に幕府の援助をうけ和学講談所を現在の千代田区六番町に開設した事に端を発する。この和学講談所が編纂していたのが『史料』と呼ばれるもので「六国史」以後、宇多天皇から後一条天皇まで四百三十冊を編纂した。この『史料』の編纂形式は、編年順に年月日にかけて綱文を挙げ、関連する史料を配列し、史料批判を注記するという現在の歴史学と同様の客観的歴史を重視する史料主義を採用しており、江戸時代の修史事業としては特筆すべきものであった。明治維新後の明治二(1869)年に史料編輯国史校正局が同地に開設され紆余曲折の後、『大日本史料』が刊行された第一編の例言で「本編ハ、モト塙保己一等ガ、和学講談所ニ於テ編纂シタル「史料」凡四百三十巻ヲ以テ之ニ充テタリ」と記されたように、現在の『大日本史料』の形は『史料』に基づいていると云えるだろう。
 現在の史料編纂所(通称・史料)は、研究部と図書部、史料保存技術室、事務室から構成されており『大日本史料』の他、その綱文を集めた『史料綜覧』を始め『大日本古文書』、『大日本古記録』、『花押かがみ』、『大日本近世史料』、『大日本維新史料』などを刊行している。
 猶、詳細な刊行状況を知りたい方は→東京大学史料編纂所

 −余談−  史料編纂所の一階右手には東大の国史研究室があり、無論の事ながら史料編纂所と東大の史学科の繋がりは強い。それは歴代の所員の大半が東大出身者である事からも伺い知ることが出来る。
 一昔、史料は試験無しで入れた事から東大史学科の就職先と陰口とたたかれた事もあるそうだが現在では試験によって他大学出身者でも公平に入所出来るチャンスがある。ただ試験を受けないで入った世代には、佐藤進一、新田英治、石井進、百瀬今朝雄、笠松宏至などの中世史を代表する研究者もおり、一概に善し悪しは云えないのかもしれない。

『大日本史料』の使い方

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 先に史料編纂所の説明で述べた通り、『大日本史料』はその前身である『史料』の体裁を模している。年代的には宇多天皇の仁和三(887)年から明治天皇の慶応三(1867)年を十六編に分け、各編毎に初年次から順次刊行して行くスタイルをとっている。
 ちなみに中世にあたる部分の編は以下のように分けられている。
 第四編・・文治元(1185)年〜承久三(1221)年
 第五編・・承久三(1221)年〜正慶二(1333)年・元弘三年
 第六編・・正慶二(1333)年・元弘三年〜明徳三(1392)年
 第七編・・明徳三(1392)年〜文正元(1466)年
 第八編・・応仁元(1467)年〜永正五(1508)年
 第九編・・永正五(1508)年〜永禄十一(1568)年
 第十編・・永禄十一(1568)年〜天正十(1582)年
 (但し第四編と第五編の鎌倉時代は古代史料部となっている。不思議である)

 これらの一つの編には常勤二人、非常勤一人の三人がチームを組んで編纂し、各編毎に三年を目途として一冊刊行し、概ね1000部を発刊している。
 ページ数的には編纂する時間、また予算の都合上近年では300頁が目途とされているようだ。
 それでは本題である『大日本史料』の使い方について始めてみよう。
 まずはつい先頃、刊行された『大日本史料』第五編之三十一を例としよう。一部分を便宜上横書きにしたものをみていただきたい→こちら

 分かり易いように色分けで区別できるようにしてあるが本文の上の部分にあたるのが「表出」、本文で大きく書かれているのが「綱文」、本文内の○〜と云うのが「按文」と呼ばれるものであり、基本的には事柄のある年月日に綱文を挙げ、この史料がどこに所蔵されているものなのかを[ ]で示し、本文を載せる。と云うのが『大日本史料』の形である。

 『大日本史料』が膨大な史料の中から集めて編年体で編纂されている事は既に述べたが、「この事件の事は某の史料に載っている」と云うような事は明治期からにつくられた「史料稿本」を基としている。
 現在では「史料稿本」は史料編纂所の図書室の奥深くに所蔵され、所員でなければ見ることが出来ない秘蔵本とされているようだが、現在では新しい史料も多々見つかっておりこれだけでは編纂出来ないと云うのが現在の状況なのだそうだ。
 ちなみにこの「史料稿本」を元として編まれたのが『史料綜覧』であり、『大日本史料』が刊行されていない年代には役立つものである。

 −余談−  『史料綜覧』は数十年前に復刊して以来、在庫がない状態が続き、古本屋で買うにしろ全巻で20万くらいを吹っ掛けられるという事が続いたが、つい先頃復刊が適い各時代別に順を追って発売された。
 この為、古本屋でもっていた『史料綜覧』は安値(とはいっても全巻で5万くらいだが)で売られるようになり貧乏な学生は非常に恩恵を蒙っている。
 猶、復刊された『史料綜覧』も部数はさほど刷らないそうなので、もし欲しい人は無理をしてでも買うことをお薦めする。なにせ『大日本史料』が刊行されていない時代を研究するにはこれがないと始まらないのだから。

 もう一つ『大日本史料』を編む上で活躍するのが「某の件はどの史料に載っている」と云うのが記された膨大なカード類である。
 こうして一巻の『大日本史料』を編むには、このカード類を片っ端から手作業で検索し、その元となる史料を集め綱文を作り原文を載せていくという地道な作業で行なわれ刊行されている。
 こうして編纂される『大日本史料』だが、各編、各編纂者によって、綱文・表出・按文の付け方が違う事がある。

 まずは綱文から説明しよう。
 綱文とは先に説明した通り「史料稿本」の記された「年月日に某があった」旨を示す文言である。
 先のページで載せた『大日本史料』では
 二十三日、壬辰、幕府、久遠壽量院領駿河宇都谷ク今宿傀儡ト寺家雑  掌僧教圓トノ相論ヲ裁シ、教圓ノ新儀非法ヲ停止シ、同人ノ預所職ヲ改易セシム、
 とあるのがこれである。
 この綱文はその新史料が見つかっている場合、@新たに綱文を挙げる、若しくはA年の最後の年末雑載に挙げる、という手段が取られる。
 基本的には多くの綱文を挙げる事としているが、地方だけの事柄の場合、雑載にまわされることが多いようだ。
 またこの綱文を新たに挙げる場合、これまでの綱文と文体が変わらないように先例を勘案され作られている。
 またこの綱文のあとに載せられる史料の順番だが、基本的には一番信憑性の高い文書、その事柄に対し総て記されている文書を筆頭にして載せられている。

 次に表出について。
 表出は先のページに載せた『大日本史料』では
  相論八ヶ條ニ及ブ
  地頭ハ國方ヨリ補任
 とあるのがこれで、史料を読む際便宜が計られるように注書きされている。
 この表出にも@他の人が読めなそうな処を具体的に説明する、という意見とA出来るだけ客観的な事例に対してのみ挙げるべき、との二つの考え方がある。
 それは@で行った場合それは先例化され、後々読めない文書にあたった場合、そこだけ表出が付かないのは具合が悪いと云う主張である。
 こうした編者の意見の違いによって同一文書が載せられていても、巻数が違うと表出が違うと云う事がまま見られる。

 最後に按文について。
 按文は先のページに載せた『大日本史料』では
 ○周防國司、朝兼ノ末松名田押領ヲ停止スルコト、貞永元年八月是月ノ條ニ、同國司、源尊ノ訴ニヨリ、朝兼ノ非法ヲ成敗セシムルコト、嘉禎元年閏六月是月ノ第一ノ條ニ、源尊竝ニ百姓等、地頭ノ非法を六波羅ニ訴フルコト、仁治三年五月十日ノ第一條ニ、幕府、地頭朝貞ト公文源氏女ノ所務相論ヲ裁スルコト、正元二年三月十二日ノ條ニ見ユ
 というのがこれで、関係する史料が『大日本史料』にある場合、それがどこにあるかを説明してくれるもので人物の死亡記事の際には数ページにも渡る按文がある事は珍しくない。
 この按文にも意見の違いがあり例えば複数年続く訴訟を取り上げたとしよう。その際例えばA年→B年→C年と相論が続き、D年になってやっと結審したとしよう。
 こうした場合、いま編纂しているのがB年の条だとすると@B年につながるA年、C年の事のみを按文として挙げると云う考え方と、A総てD年の結果まで挙げるべきだという考え方がある。
 実際問題として『大日本史料』総てが刊行されるには1000年もかかると云われている中で、そのD年の事が按文で書かれていないとしたら、それが分からないままになってしまう危惧がある。
 荘園などの訴訟の場合、複数年(というよりとても長期に渡って)裁判が続くことは珍しい事ではなく、その場合にAの方法が採られることを期待したいが、これもまちまちなのが現状である。
 以上、『大日本史料』についての具体的な説明をしたが読んでいただければ分かるように編纂者の力量、または編纂意図が『大日本史料』のなかでも違うことがあり使う側はその意図とくみ取りながら使わなければならない。(但しある一定以上のレベルを保っているのは事実なので何も邪険に考えなくても良いとは思うが)

 だが『大日本史料』には編纂者の名が記されていない。もし自分が使っているものを誰が編纂したかを知りたければ『東京大学史料編纂所報』を見ると良い。この所報は1966年より刊行されており、各年度の担当が分かるようになっている。

 そして最後に十六編に分かれている『大日本史料』の中でも五編と十編はインターネットで編纂ノートを公開しており、二つの編の新刊内容について、どれだけ編纂者が読み込んで、いろんな論文を参考としているかが分かるようになっている。

 参考としてアドレスを挙げておくと
○第五編之三十一編纂ノート

○第十編編纂ノート

○東京大学史料編纂所データベースSHIPS forインターネット検索ページ

 である。何度も述べた事だが『大日本史料』が完成するのはまだまだ遠い。編纂所内でもその編纂スピードに対しる批判に対しどのように応えるかは議論となっているようだ。
 実際、史料編纂所が行っている事は『大日本史料』などの編纂だけではなく、インターネットを使った検索データベースの作成など様々な事業を行っている。
 そんな中での史料編纂所の基となる『大日本史料』をもっと使う側に立って編纂しようと云う声もあり、これからは変わらない『大日本史料』ではなく、使う人間にとって分かりやすいものとなっていく事を期待したい。

史料編纂所図書室の利用方法

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 それでは最後に史料編纂所の図書室について説明しよう。史料編纂所図書室は一般の歴史図書の他、影写・模写・写真撮影等の方法によって蒐集した日本国内外の史料を所蔵し公開している。
『大日本史料』でも事足りぬ、古文書を使って研究がしたいと言う人にはお勧めの図書室と云えよう。
 詳しい事は以下のアドレスで調べる事が出来るので利用カードの取得方法などについてはここでは省略する。
○東京大学史料編纂所図書室


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