01.貴族概念
よく「王朝貴族」「平安貴族」等々・・・etcと云う風に表記している書籍がなどがありま
すが、その意図は異なったとしても「貴族」と云う言葉の概念として一般大衆つまり百姓
の対比語として、特権階級の意味合を持たれて使用されています。
平安貴族などの形成には
律令官位制
公卿の成立
昇殿制の成立
と云う三つの契機によって「平安貴族」は成立したと思われます。
一 律令制の位階において、三位以上を「貴」、四位・五位を「通貴」と称して官僚
機構の最上層部を独占して経済的優遇のみならず、その親族に至るまで刑法上の恩惠を蒙
り、無位者は無論の事、他の有位者とも明確に区別されています。そして元来その本人の
みを対象とした「貴・通貴」身分はおんい制によって再生産の仕組みを与えられ、しだい
に貴・通貴より貴族への発展をして行くこととなります。
二 平安貴族は律令官僚を母胎として発生したものですが、その最上層部に位置して
いるのが「公卿」です。公卿号は平安中期より盛んに使用されるに至りましたが、それは
参議の成立と公卿議定制の定着と見るのが妥当と云われます。
公卿は太政官の首脳として他を排し優越した地位を占めていましたが、更に宮廷儀制
の形成に伴い、朝儀・公事を始めとする宮廷行事は公卿を中心として運営され、公卿は単
なる役職上の地位に止まらずに身分的・階級的彩色を強め平安貴族の中心となりました。
平安中期・末期に見られる「貴種」の語が概ね公卿の身分を基準としていたのもそれら
を裏付けています。
三 平安時代も中期・後期を過ぎ始めると、貴族としての関門たる五位の壁はしだい
に崩れて代わって「昇殿制」が新しい身分制として宮廷社会に重んじられるようになって
いきました。
この制度は古くは平安初期より見られましたが、中期に至って昇殿できる人数を減少さ
せ公卿のほか、昇殿を許された四位・五位の廷臣を殿上人と云い天皇の側近として代毎に
選定されました。
のちに公卿とあわせて「堂上」と呼ばれて公家貴族の総称と相成りました。
では、その「貴族」と云う言葉はいつより文献資料に使用され始めたのでしょうか?
それは思ったより新しく「太平記」が始めと思われます。
承久ヨリ以来、儲王摂家ノ間ニ、理世安民ノ器ニ相当リ給エル貴族ヲ一人、鎌倉ヘ
申下奉テ、征夷将軍ト仰デ、武臣ミナ拝趨ノ例ヲ事トス。
このように、平安貴族の全盛期たる平安時代には少なくとも名辞として史料には出典
していません。
云うまでもなく貴族は遺戒で示すと五位以上を指し、それは「貴」と「通貴」に別
れます。
つまり五位以上を貴族と称して、その人数は摂関全盛期以降より約150人と算定され、
その家族も含めると1000人程度。平安京の人口が当時10万人と推定されているので、
その1パーセントになります。五位の位階を境として給与などの待遇の面にしても大きな
格差があり、その意味に於いて五位の壁は厚く、これを越えられるか否か生まれながらに
して有る程度決定づけられていて、それ程出自がものを云った時代だったのです。
そして五位以上には蔭位制の恩恵などもありました。「蔭位孫」については
「蔭位資格者(三位以上の子・孫と四位・五位の子)を中核とした五位以上の子・孫」を
と規格して「位子とは内六位〜内八位の嫡子を原則とする」とありますから、蔭位孫はま
さに貴族再生産制そのものでした。
この事をふまえて官僚制内部には国家権力を担う五位以上の貴族官僚と、六位以下の下級
官僚や下級職員たちがおり、貴族官僚グループと下級官僚群とがはっきりとした別の階層グ
ループを形成してしたと考えられます。
そして、これら貴族官僚と下級官僚とをひと目で区別する為に、位袍と云う男子の正装で
ある束帯の一番上に着る袍は位階によって四位以上は黒、五位は緋、六位以下は縹、無位は
黄と云うぐあいに色別されていました。
次に公卿について触れたいと思います。
桓武から安徳までの平安時代三十二代の天皇間の現任公卿の定数は(前大納言や非参議と云
った散位公卿は除いて)平均二十人程度です。
個別に見ていけば、
清和から村上までが 十四人強
冷泉から後三条までが二十一人弱
白河から安徳までが 二十七人
と推移して行きます。
またこれを氏姓別で見てみると十世紀初頭から十二世紀末までの公卿の総計三百九十五人中
藤原氏265人 67ぱー
源氏 79人 20ぱー
平氏 24人 6ぱー
大中臣以下7人
そして、平安から明治まで続いた摂関の総ては(豊臣期の10年前後を除いて)藤原氏が独占し、
時代を超えて藤原氏は常に廟堂の頂点に君臨していたのです。
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