02.天皇と摂政・関白・内覧

  摂政関白制が九世紀後半に於ける藤原良房の任太政大臣に端を発している事は周知の事ですが、  その成立は輸入された律令制の内実が実質化して行くに伴い、律令文書主義の浸透と「律令制的  天皇」が完成された事により準備されました。   天皇が政のリーダーとして領導を振るわずとも良い状態へ移行し、天皇は権威としての側面が  強調され清浄にして神秘性を具えた一機関へと変化して行きます。   そうして状況の中外威藤原良房の後見による摂政制が太政大臣と不可分に結びついて成立した  のです。   摂政・関白の制度的成立は藤原基経の時期に骨子がまとまり、摂関常置時代以前の関白は、摂  政前任者の待遇として、前摂政が居なければ関白を置く必要も生じなく摂政を必要とするのは天  皇が20歳になるまでと云う事です。   摂政制が太政大臣の職務を基礎としていながら、外威と太政大臣という二つの矛盾する基盤に  立っていたのも事実で、両者が摂関=外威と云う形が整備されたのが藤原兼家の時期ですが、一  上制の成立を見た藤原忠平期もまた摂関が太政大臣相当であると云うことに深く関わっています。   一上制とは、摂関太政大臣を除く筆頭公卿または次位の公卿を、宣旨によって太政官の重要公事  に当らせるもので、忠平が「一上の事」を右大臣に行わせた事に端を発しています。   藤原兼家の政権により摂関=外威が成立したと先に述べましたが、この成立の意義をまとめると  1.摂関が律令官職を超越した地位になった  2.摂関と太政大臣が分離した  3.摂関と藤氏長者の一体化  4.蔵人所別当の実質的役割の内覧・摂関への吸収   となります。   これらの事により摂関一族に他との隔絶した待遇が付与され、摂関を同一系統によって独占する  事を可能としたのです。   それと共に道長・頼通の摂関継承時期の頃には、摂政と関白の格差が無くなり道長が一上内覧時期  を通じて関白の弱点を克服したようです。   十世紀・十一世紀の天皇に至ると多くの後見を持ちそれらに支えられて天皇の職務を遂行して  います。   この後見者たちを二別するとすれば行政担当は摂政・関白・内覧と云う外威である事を拠として  おり、もう一つは院・女院・母后等です。後者の方は行政担当者に働きかける事によってのみ後見  が可能でした。これら後見者の中で王権を代行できるのは摂政だけです。   あくまでも関白・内覧は臣下であり「内覧」を職掌とする補佐役です。彼らは太政官に足場を置く  一方、蔵人所にも一定の影響力を持って「輔政」をしたのです。   これらのように王権が分掌可能になった事の意義は極めて大きく、このことによって王権自体が  「職」的な変化を遂げていくのです。   名義上の代表者と実質上の権力者と分離です。   この分離を行ったのは道長ですが、後に院と天皇の関係もこの影響を受けたと云われています。   律令国家が専制君主制に基づいている事は定説となっていますが、「摂関時代」ともよばれる道長  を頂点とした時代は本当に貴族政権だったのでしょうか?   摂関権力は天皇の「身内」的集団として王権に依存する特別な人達だったと考えるのが妥当だと思  います。   摂関家の元は貴族ですが、その立場は他の貴族とは異なりむしろ王権に寄る存在です。   それは荘園制にも端的に現れますが、「本所」に成り得たのは摂関家のみですし、陣定や公卿議定  は王権側から提起され、統一見解を出す訳ではなく、最終判断は天皇若しくは摂政に委ねられました。   陣定に摂関は出席せず、判断者の立場となっていたのも特筆すべき注目点です。   これらの事を考えれば「摂関政治」や「貴族政権」と呼ぶよりも一部代行が可能となった変質的天  皇制若しくは分権的王権と云う方が妥当でしょう。   最終的に天皇が「神事・儀式」と「政治」と云う二分化の下、王権が「天皇職」化していき職の頂点  として存在するように成りました。   摂関家が外威に成り得なかった後三条朝は摂関制の転換期となりました。   しかし、摂関家には既に天皇の代行を制度化した摂政や行政面での後見たる関白を占有しうる家格と  昇進コースがある程度確立していました。   そうした摂関家の確立をみながら院政へと推移し中世へと時代は流れていったのです。

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