04.氏家司

  摂関家にはその広範囲に及ぶ家政を運営するために、また氏長者としての職務を遂行するために  多種多数の家司・職事の集団が勤仕していました。   今夜令造始宿申簡文杖等、亦輔家司職事    家司    成光  光経  敦佐等也    職事    泰綱  宗隆  藤行清(勾当)也   これらのなかで、九条兼実の家司も大きく分けて三つのグループに分けることが出来ます。   (1)儒者型家司   例えば、長寛二年兼実が内大臣に任命された際、家司補任(上記)を行っていますがその家司の中には  学問をもって知られる宇合系藤原氏の成光、光経などがおり、この二人の祖先には文章博士などが  いて儒家として名を馳せていました。   この儒者型家司は院政期から鎌倉期にかけて摂関家家司の特質の一つであり、摂関家がなぜ儒者  を必要したかと云えば、兼実は息子良通の書始めの「師匠」を成光を任じたり、儒者が所持している  諸記録や諸儀式などの次第書等々の需要など、文才・有識故実への知識を欲した為と考えられます。   仕事しては上記の事も含めて兼実の諸行事、殊に公務の面に関しての事務に多く関わっていたと  考えられます。   また主家との関わりあいでは、他の家司と異なり儒者型家司は兼実の文化サロンの一員ともして  行動していますし、兼実家のみの家司を勤めるだけでは無く、他の家の家司も兼ねていました。  (2)譜代型家司   その代表は源季長で、家格としては醍醐源氏の流れを組み和泉守を勤めています。   季長家は兼実の父忠通の頃にも家司として行動し、長年の縁故が窺い知ることが出来ます。   季長を代表とする譜代家司の仕事は史料を見ると兼実の娘や息子の通過儀礼の際には必ずと言って  いいほど陪膳などの役目を果たしています。   兼実家の正月などの諸儀式の陪膳もほとんどが季長が行ない、譜代型家司は文字通り家政的な  面を担っていたと考えられます。   (3)氏家司   儒者型家司が摂関家の家司制の中世的側面があると述べましたが、尚一層著しくそれを顕著に  示しているのが、第三のグループ「氏家司」です。   氏家司は九条兼実が文治二年に後鳥羽帝の摂政に就任して以後、「氏家司」と云うものが「玉葉」  に散見するようになります。   「氏家司」と云うニュアンスを単純に考えれば、藤原姓の家司と云う解釈が成り立ちます。   確かに各氏で「異姓」「他氏」と云う意識は顕著ですし、兼実が記す「氏家司」は藤原氏の者で  あることに間違いは無いでしょうし、それらの事は大前提です。ただ氏家司と云うものが散見する  ようになるのは兼実が摂政・氏長者に就いてからである事や「氏家司」が受け持つ職掌が有ること、  また同時期の近衛家実の日記にも散見する事から単に藤原姓の家司とは断じ難く、それ以上の意味  を持つと考えるのが妥当でしょう。   この氏家司の職掌を史料から探してみると    春日社・吉田社など藤氏にとって重要な神社への奉幣使    氏祖鎌足が眠る藤原氏最重要聖地である多武峰使    興福寺維摩会について長者宣に関わるもの    鹿田庄の知行   等だと推測されます。   そして兼実が記す氏家司・能業、氏職事・頼高は前代基房などにも上記の職掌に関わっており  氏長者が代替わりしようとも変化することなく職務を遂行する「氏家司・氏職事」と云う存在が  あったと云うことは事実でしょう。   しかしなぜ、これら氏家司・氏職事が中世に発生しまた中世的と云うのかと云えば、兼実の父  忠通の代ののち摂関家は複数の家に分裂し、御堂流としてまとまっていた事に関しても二分され  た為に氏全体に関わってくる行事の運営にも再検討する必要が生じ、九条家・近衛家のどちらにも  属さない「渡荘」を管理管轄する事が解決の手段となり、一方の氏行事も摂関が頻繁に交代しよう  とも氏事務に大きな変化変動をもたらさない為に摂関の交代に関わらない「事務官」が創設され  それが「氏家司・氏職事」として誕生したのでしょう。

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