05.執政期

  鎌倉時代の朝廷の第一の人となったのは兼実です。頼朝(幕府)の朝廷への要請は兼実を通じ  兼実の下にて具現化されて行きました。後白河院に踈まれていた兼実はそれまでの廟堂一新を  計るべき事として公卿の伝統的な合議「陣定」の系譜上関連性のある「議奏公卿」を設置しま した。    縦雖被下勅宣院宣事候。為朝為世可及違乱端之事者。再三可令覆奏給候也   という鋳ゥの書状はあまりにも有名ですけど議奏公卿には上皇の判断への介入が一番期待さ れていました。     陣定とは先に述べたように天皇に対しての参考資料の提示的な役割しか果たすことが出来ま  せんでしたがこの議奏公卿はその陣定を更に強化した制度と云えるでしょう。   一般的には議奏公卿はほどなく廃されたと云われますが、それ以後の詮議・議定に集る者達  も議奏公卿出身が多かったようなので、これらの公卿と兼実卿をあわせた面々で本来「陣定」  が天皇の選択肢の提供の働きしか行わなかったのに対して上皇という枠からはずれて、「上皇  の制御・掣肘」に役だったとおもわれます。   そこからの発展系として更に上皇からの距離を置く「記録所」が設置されます。   「記録所」は文治三年二月廿八日「諸司諸国併諸人訴訟、及庄園券契ノ理非勘決」と「年中  式日公事用途ノ勘申」の為に設置されました。   記録所は特に訴訟面に関しての朝廷の機能の向上化を目指したもので、当世あった補任によ  り名誉を得るために寄人となるのとは異なり「諸道之輩」「法家博士多為寄人」がメインとな  っていて、記録所勘申が陣定の参考資料となるのではなく、直接兼実卿を経過して上皇の決断  に介入出来る点が目立つ事でしょう。   これらの事を見ていくと兼実の指針と云うのは恣意的な専制を振るおうとする上皇を「法」  によって押さえていく意志が有ったという事は晄かです。   それ為、伝統にとらわることを拒み、治天の君たる事を以て至上の価値とする上皇との対立  は避ける事は必然的に不可能で、兼実が主導権を確立するには頼朝との提携が不可欠であった  事実は大きな意味を持ちます。   頼朝との提携が無為にきした時、兼実が失脚したと云うことは兼実の本当の意味での対抗者  は源通親などではなく上皇と云う大きな力だったと云うことでしょう。

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