06.沽価法

沽価法(こかほう)  古代・中世に、物品売買の価格や代物貢納の際の交換比率を定めた法。『関市令義解』  毎肆立標条によれば、市での売買について市司が三等の沽価を定め、更にこれをおのお  の三等に分けて計九等価を定め、これを10日間維持するとしている。『延喜左右京職  式』によると、毎月一度沽価帳三通を作成し、太政官・京職・市司に保存する。諸国で  は、農民から交易によって雑物を徴収する際の交換比率が定められていた。永延二年 (988)の『尾張国郡司百姓等解』によると、尾張国では、交易雑物・地子物交易は直絹  一疋に対して稲40〜50束、手作布は8束以上、信濃布は5〜6束以下と沽価が定め  られていた。国衙から中央に送る場合の比率も沽価法による。延喜十四年(914)地子交  易について、絹一疋稲50束、綿一屯稲5束と全国一律であったのを、実情に合わせ国  別沽価を定めた。その後、天暦元年(947)に雑物沽価法を、寛和二年(986)に銭貨による  沽価法を、延久四年(1072)に米・絹による沽価法を定め、鎌倉幕府も数回にわたり沽価  法を定めている。沽価の制定は、市の発達と製品の規格化を前提とするものであろう。                                  [阿部猛]  平安時代史辞典[角川文衛監修(財)古代学協会・古代学研究所編・角川書店]より  日本の銭貨流通に於いて皇朝十二銭が流通した後、渡来銭が中世から大々的に流通する までの間、銭貨の流通が減少しました。 「百練抄」巻五延久四年(1072)八月十日条に「定沽価法」とあり、この記事には沽価法の 事をなんら記していませんが玉葉・治承三年(1179)七月二十七日条に「又年々の沽価法(天暦 ・応和・寛和・延久等也、長寛の比、此沙汰に及ぶと雖も、終始の事無しと云々)を尋ね見 るに、此の中延久もっとも委細、近世の法に叶うか」とあり、同月二十五日に、近日銭の 直法が行なわれるが、皇憲に違背しているとして禁止すべきか若しくは私鋳銭以外の通用 を認めるべきか、この場合はどの沽価法を用いるべきかと云う諮問があったのに対する兼 実の答申です。  従って延久の沽価法と云うものが「銭の直法」である事が判明します。  沽価法は最初に平安時代史辞典より抜粋した通り、沽価法は市場に於ける売買価格の公 定を意味していると考えられ、延久の沽価法も市場の公定価格を意図したものでしょうか ら、それが銭価と云う形で定められている事を見れば延久年間に於いても多少ながら銭貨 の流通が行なわれていたと考えられます。  皇朝十二銭以降の銭の発行が行なわれなくなってから絹や米などが銭の代用として使用 されていた事が多いとしても銭貨を使うことの意義・便利さなどは人々の意識のなかに残 り中世初期の渡来銭の流通に於いても何ら遜色なく使用されたのでしょう。  それは十一世紀に減少した銭貨の流通が十二世紀に入ってから上記の玉葉にも見ること が出来るように政策協議の題名ともなっている事が解り、公卿でも討論しなければならな い程、活発化してきた事が一種の証明となります。  その流通の活発化の反面、朝廷の官人内では、渡来銭を私鋳銭と同様と考えていました。  それは兼実の諮問に答えた検非違使でもあり明法博士である中原基広は「銭売買の間は 近代唐土の銭、此朝に於て恣に売買すと云々、私鋳銭は八虐に処す。縦い私に鋳ざると雖 も、所行の旨、私鋳銭と同じ、尤も停止せらるべき事歟」との答えに端的に現われている と云えます。  しかし、実際には大量の渡来銭が流入し流通していたことが遺跡などからも判明してい ます。渡来銭が本朝で即座の下に受け入れられた感がありますが、それは前述通り、銭貨 の意義・便利さ(価値基準の統一が計られて交易の媒介物として有効性がある程度まで理解 されていたと云う事)と、それに加えて旧銭も併用されていた為に常に複数種類の銭貨が流 通しており、銭文の如何にはあまり関心がなかったのではないでしょうか。 この治承三年の諮問の際には渡来銭を私鋳銭と同様に見なし、停止すべきだと兼実も賛意 を示していますが当時の平家政権や院政との関わりからか禁令は出されませんでした。  そして平家が滅亡した後の文治三年(1187)の六月には参河国の申請に基づいて評議を行 ない銭貨使用の一般的停止については慎重な姿勢を崩さなくとも「今銭」は速やかに停止 すべき事を命じています。今銭とその他の銭との区別がなされている事、今銭のみが停止 させられている事を考えると今銭=渡来銭と考えるのが妥当であり、今銭のみを停止して いる事で、その他の銭、つまり皇朝十二銭も多少ながら文治三年当時には流通していた事 が解ります。  しかしながら建久四年(1193)七月に至ってはその区別は無くなり、銭貨流通を停止しな ければ、直法を定めることが出来ないから宋朝銭の通用を禁ずるとの宣旨が出されていま す。治承三年以降、朝廷では直法の安定を求める手段として銭貨の流通を討議してきまし たが銭貨の流通停止が宋銭の禁止に直結している事を見ると当時の流通していた銭貨の殆 どが宋銭と化していて、その認識が公卿も持っていたと云うことでしょう。  このような状況は貨幣需要量の増大に応じた(渡来銭)宋銭輸入、その結果当時残存した 本朝古銭の相対的流通量の著しい低下によってなされたものでしょうが、宋銭普及は当然 銭貨流通の発展を促ていく事となります。   特に皇朝十二銭の頃より銭貨の流通の拠点であった山城に於ける宋銭の流通の割合が 殊に著しく宋銭流通の急速な発展が公卿の関心を引き宣旨が出されたと思われます。  この宣旨及び、同年十二月二十九日の「応銭貨出挙以米弁償利事」とし、先に八月六日 付宣旨で定められた規定に従い、挙銭の利を米に換算して支払う旨を命じた宣旨によって、 現実を無視した宣旨ではあっても、短期間においては表面上の銭貨使用を押さえている事 が出来ました。  これらが兼実執政期の銭貨流通にしての朝廷の指針・方針でした。

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