月輪殿下傅
U.月輪殿下傅
1.没生年
兼実の生年は近衛天皇の久安五年己巳です。このことは玉葉文治四年二月二十日
の条に記載されており、また文治六年正月十一日の条(以下日付のみの記載は玉葉か
ら依る)に長子任子(宜秋門院)入内のことを述べた際にも自分の年齢を記しているの
でとても明瞭に読みとることが出来ます。
没年に関しては仲資王記承元元年四月五日条に記載され五十九歳で人生の幕を閉
じました。尊卑分脈などいずれにも異説は有りません。
2.幼時・生立
兼実の幼児期に関しては諸伝は極めて少なく、史料・資料共に目に入ったものとし
ては
01.今鏡 (浜千鳥)の藤原忠通(兼実の父)の子女を列挙した処
02.兵範記久寿三年(保元元年)二月十日
の二つがあり、01.今鏡に記載されている「右のおほい殿」と云うのは「右大臣」
の意で兼実の事を指している。
そして「女房の御はらに」生まれた「三井寺のあや僧都のきみ」「三位中将殿」
「山の法印」が兼実の同母兄弟で、上から順に道円、兼房、慈円です。
02.の兵範記の記載では藤原忠通の妻「加賀」の逝去を記し特に忠通が加賀を寵愛
していた事を特筆している。
上の日記によって「八歳」男子が兼実で、以下二歳ずつの差で道円、兼房、慈円
と並んでいる事も判明しました。
ちなみに一般的な公家の子息の通過儀礼として袴着と元服があります。
袴着は「着袴」とも書き、幼児が三歳から七歳の頃までに初めて袴を着ける儀式
の事で、儀式当日着用の装束は、親族の尊長者(兼実の場合は父忠通若しくは祖父
忠実)若しくは中宮、女院が贈り、親戚中の尊貴な者が袴着親として袴の腰を結ぶ。
袴と共に直衣を着し、指貫は着せない事にもなっていました。
次に元服ですが、知っての通り元服とは男子が成人した印として、初めて冠を被
る儀式で、この時より初めて花押を使うことが出来ました。
元服の時期はだいたい十一歳から二十歳の間で行なわれ、期日は多くは正月に行
ない兼実は保元三年正月廿九日に行なわれ、十歳となった時でした。
大抵この元服の日に併せて給禄・叙位があり、兼実も正五位下に任じられ昇殿も許
されています。
話を本題に戻して進め母の没年は先に記した兵範記より知ることが出来ますが、父
忠通が薨じたのは長寛二年二月十九日。有り躰に云えば、兼実は母を八歳にして父を
十六歳にして喪した訳です。
兼実が父母からどのような教育を施されたかは多少、玉葉に父忠通の教訓らしき事
が記載しれているだけで殆ど解りません。
その殆ど解らない幼児期の兼実を直接、乳母として養育したのが「御匣殿」です。
御匣殿は内大臣藤原宗能の娘で従三位中宮亮藤原季行の室となった人で、参議大納
言藤原定能の母でもあります。女院高松院(鳥羽皇女)に仕え御匣殿別当となった為に
「御匣殿」と呼ばれていました。この藤原季行の娘兼子が兼実夫人で、良通・良経など
を産んでいます。御匣殿が逝去したさいにもわざわざ特筆し即世を悼みまた、御匣殿
の命日七月廿日は菩提を弔うため、特別の日となったようです。
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