月輪殿下傅
U.月輪殿下傅
3.妻妾・子女
兼実の妻妾と子女は自身の日記玉葉とその他の史料によって大体を知り得ることが
出来ます。
兼実の子女一覧
名 極官 母 生年 没年 没歳
1.良通 内大臣 藤原兼子 仁安二・十一・六 文治四・二・廿 二二
2.良経 摂政 藤原兼子 嘉応元 建永元・三・七 三八
3.任子 中宮・宜秋門院 藤原兼子 承安五・六・十一 暦仁元・十二・二八 五四
4.良尋 法性寺座主 藤原兼子妹 治承元 建仁二・七・二逐電
5.良円 興福寺別当 大弐局 治承三・七・十三 承久二・一・十四 四二
6.女子 寿永元 四
7.良平 太政大臣 藤原頼輔女 寿永三・四・十九 延応二・三・十七 五七
8.良輔 左大臣 高階盛章女 元暦二・九・廿 建保六・十一・十一 三四
9.良快 天台座主 藤原頼輔女 元暦二・九・二八 仁治三・十二・十七 五八
10.良海 女房三位 文治三・十・八
11.良恵 東大寺別当 建久三・一・十七 文永五・十一・二四 七七
12.兼良 大納言(猶子) 仁安二 承久三・一・三 五五
(1)北政所(先に記述のある)藤原季行の娘・兼子に関しては・・・
結婚は永暦二年正月廿九日(兼実十三歳、兼子十歳)四条坊門東洞院亭にて行なわれ
ました。この四条東洞院亭は六角亭とも云い、藤原季行の当初所有でした(後述)。
ここで露顕を行ない婿住したようです。つまりは婿取婚ですね。
兼実の当日装束は不明ですが、「玉葉」建久二年六月廿五日の条に嗣子良経が一条
能保の一条室町亭に婿取られた際新郎の装束を記しその中に
余渡六角亭之時、所帯之海浦之剣
と書いており、これのみ兼実の結婚当時の装束を垣間見る史料となっています。
又、新婦兼子の装束は
白御衣八、濃色御単、濃打御衣、薄蘇芳二重織物長着、小掛濃張袴
となっています。
そして、「十訓抄」にある文章より舅讃岐三位藤原季行が兼実を婿として常に和歌
や琴の師匠をとり学ばせていた事が読みとれ、平安公家の例に漏れず兼実も舅から多
大なる影響と扶育を受けたと思われます。
兼子は兼実の北政所として、また良通・良経・任子の母として玉葉によく登場し兼実
が最も愛し、形影相伴うような仲だと云うことが文面から読みとれます。
生年は良通誕生(仁安二年)の際、十六歳との事なので仁平二年の生まれ。
没年は猪隈関白記建仁元年十二月十日条に
前関白北方去夜早世云々、左大臣(良経)母儀也
の記載があり、明月記にも同日同等の記載があるので享年五十歳であることが解り
ます。その没後四十九日に兼実が出家している事からも兼実の愛情が思い測る事が出
来るでしょう。
(2)藤原頼輔の娘
良平・良快の母。この藤原頼輔の娘は玉葉で普通「女房三位」と記されている女性で
す。建久二年八月二日条に
女房三位参籠日野寺、依所労也、父入道円阿相具参籠
とあり円阿とは藤原頼輔の法名です。また、良平の母だという実証は公卿補任元久元
年良平条に註して「母故修理大夫頼輔朝臣女」と見え、明月記には
女房三位参籠日野寺、依所労也、父入道円阿相具参籠
とあって「大納言」とは則ち良平の事であり、これらによって頼輔女が「山井殿」と
呼ばれた事が知られています。
(3)高階盛章の娘
良輔の母。玉葉には三位局と頻見するのみです。
そのほかの妻に関しては所見少なく、詳細は不明です。
次に子女に入りますが、長男良道は早くから皇嘉門院に養われ三歳の時にその御所
において真菜の儀を行って女院の養子となり、女院の御所で袴着の儀を行う等々、女
院に愛育されていたようです。
女院が崩じると遺言で
大将(良通)之外無思置事之由
とあり、女院の所領は良通が伝領しました。
文治四年二月廿日に没し、玉葉にても同日記載から兼実の慟哭の情が良く解ります。
次男良経は後京極摂政として、また歌人として家集「秋篠月清集」で数多くの歌を
残し、更に名筆家として天下に名を広めた人物です。
この良経もまた女院高松院に養われ、早くに猶子となっています。
そしてこの良経もまた兄と同じく父に先立って三十八歳にて頓死し、暗殺とも風聞が
あり、良尋の失踪していて良経の他界二ヶ月後の九条家家司藤原長兼の言には
大殿(兼実)有御遁世之御志
ともあり、よほど精神的にショックを受けた時期だったもようです。
失踪した良尋とは文治三年七月二十五日に、兼実の弟・慈円の房に入り同十一月廿七
日に十一歳で出家しました。兼実は殊の外喜びましたが、良尋は師慈円と合わず遂に
建仁二年七月に逐電したのでした。
任子は後鳥羽帝の中宮として後宮に入り後に宜秋門院の号を賜った女性です。
兼実はこの門院によって外威政治を行うことを一生の野望としてした事は想像に難く
なく、実際にも行いました。
良輔の母は高階盛章の娘で八条院女房三位局と呼ばれた人です。八条院は鳥羽上皇
皇女璋子内親王で、その所領は広大きわまりなく天下に鳴り響き、しばしば政局をも
巻き込んだ女院として有名です。良輔は早くより八条院に伺候し、文治二年二月四日
には院に参じてその養子となり、その後の生育に行なわれる諸儀式は総て八条院の沙
汰で行なわれました。
後に良輔は内大臣に至り、八条内大臣とも呼ばれ兼実の没後十二年三四歳で没して
います。
良快は延暦寺に入り、慈円の門人となって後にその門跡を継ぎ天台座主に至ります。
良円は、兼実が早くより出家させる意向を持っていたようで、元暦元年二月九日、
興福寺の信円(兼実の異母弟)が来訪した際にわざわざ六歳の良円(幼名不明)を引き合
わせています。そして文治三年正月十七日、九歳の時、信円に託して興福寺に入れて
います。
良円は後に大僧正となり「後菩提山僧正」と呼ばれ興福寺別当まで上っています。
良平については、正治二年十二月廿日条に「此日大童元服名良平」とみえ何故元服
が十七歳まで延びたのかは不明です。
(ちなみに良通は八歳、良経は十一歳で元服しています)
良平は後に太政大臣に至り、醍醐太政大臣と呼ばれました。
と特に抽出して兼実の子女を書き出しました。
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