月輪殿下傅
U.月輪殿下傅
4.父母・祖先
先の項までに兼実の妻子について一瞥しましたが、次は兼実に先だって没し、兼実
がその忌日に仏事を営んだものを書き出したいと思います。
この特殊な日は玉葉を読む中で注目すべき処なので一括しておきます。
(1) 久寿二年 九月十五日 忠通北政所宗子
(2) 保元元年 二月 十日 (母)加賀局
(3) 長寛二年 二月十九日 (父)忠通
(4) 仁安元年 七月廿六日 (異母兄)基実
(5) 嘉応二年 八月廿八日 (弟)道円
(6) 承安元年 七月 廿日 (乳母)御匣殿
(7) 寿永元年 八月廿二日 (舅)藤原季行
(8) 寿永元年十二月 五日 (異母姉)皇嘉門院
(9) 文治四年 二月 廿日 (長男)良通
となり祥月命日の順に直して見ると
(1) 二月 十日 (母)
(2) 二月十九日 (父)
(3) 二月 廿日 (長男)良通
(4) 七月 廿日 (乳母)御匣殿
(5) 七月廿六日 (異母兄)基実
(6) 八月廿二日 (舅)藤原季行
(7) 八月廿八日 (弟)道円
(8) 九月十五日 忠通北政所宗子
(9) 十二月 五日 (異母姉)皇嘉門院
となります。
兼実は早くに父母と死別している為に追慕の念が深く、その忌日の供養は頗る丁重
に行っています。さらに文治四年に至ってそれまで続けていた儀を改めて、二月十日
の母の忌日から十九日の父の忌日まで十日間に渡って仏事を執り行い、十日を開白、
十九日を結願の日と定めていて、仏事は請僧に命じ兼実自らは懺法・読経・念仏を行っ
ています。
また皇嘉門院の仏事には殊に力を入れ、門院自身が早く保延の頃より始めた懺法は
戦乱のために中止していましたが、兼実はこれを復興し門院追慕の念を新たにしてい
ます。
しかしながら、皇嘉門院と兼実の関係は異母姉と云うだけの関係に止まらずに兼実
の経済生活において非常に大きい役割を果たしており、それらを考えた上で門院との
関係は有り得る事です。
兼実はのちに法性寺を管理し、またここに居を構えていましたが特に同寺内の最勝
金剛院との関係は注目されます。
同院は兼実の父忠通の北政所宗子の願により創建され、また久安六年十一月廿七日
の官旨によって御願寺に列せられました。
兼実の父忠通は通称法性寺入道関白とも呼ばれる通り法性寺に住んでいました。こ
れに伴って北政所宗子もここに住して最勝金剛院を人生の終焉の地としたと思われま
す。
この父忠通の北政所宗子の建立した最勝金剛院は皇嘉門院聖子を経て兼実に渡りま
した。
兼実と皇嘉門院との機縁は計りかねますが兼実はこの異母姉の皇嘉門院の養子とな
りまた、前述の通り長男良通も皇嘉門院に養われました。
九条家文書には皇嘉門院自筆の所領に関する譲状があり、所領は良通に譲られまし
たが良通は兼実よりも早世した為に兼実が後に管領して、これを自分の娘任子(宜秋門院)
に伝えました。
次に幼少の折りに養育して貰った御匣殿の仏事も永く忘れなく行なわれていた事も
玉葉の忌日の条によって判明します。
それに祖先たる摂関の忌日にも関心が深かったようで、道長以降の摂関の忌日を列挙
すれば
(1) 二月 二日 頼通
(2) 二月十三日 師実
(3) 六月十八日 忠実
(4) 六月廿八日 師通
(5) 九月廿五日 教通
(6) 十二月 四日 道長
となり、玉葉に現われているものとしては建久四年二月二日条には「宇治殿御忌日」
建久七年二月二日条「此日宇治殿御忌日」と記されています。また文治三年十二月四
日「今日依本願(道長)御遠忌日」と云い、また建久二年十二月四日「御堂御八講−是
本願(法成寺本願即ち道長)後葉之繁花也」などと見えています。
摂関へのこの関心というのは単に個々人だけに対するものではなく、藤原摂関家の
今日を築いた祖先全体へとその余徳に対するものであり、それに連ねて意識している
処に彼の生命と将来の希望の実現をば託しているものなのです。
そしてこの摂関家を更に遡り、藤原氏の繁栄を築いた鎌足・不比等・光明皇后をあげ
ています。
寿永二年九月木曽義仲入京の際にある女房が夢に兼実を大織冠の後身と見たと日記
に記して
其殿ハ(指余也)大織冠之後身也、女房夢中思様、極有恐事也、年来立種々大願、祈社
稷安全、仏法興隆等――今聞為彼後身之由尤其謂ありけり
とあり、寿永三年四月廿八日条にも女房の話として
女房見吉夢、又資博見最吉夢、大織冠御加護之由也
と見えます。これらは兼実が常々鎌足とともにあると云う想いがあったと云う事な
のでしょう。そしてそのことは次の語で積極的に証明できます。
自累祖大織冠至微臣数十代之間、苟為朝之管轄身居摂関之任且蒙君之恩容、且伝家之
余慶
鎌足・不比等・道長の功業と繁栄こそ、いまの摂関を生んだ事を強調して
多武峯ハ氏之始祖也、万事可祈之、淡海公者我氏王胤出給始也、其後継踵不絶、御堂
者累祖之中為帝外祖之人雖多、繁華之栄莫過彼公
と、記し光明皇后に対しても次のように記しています。
我氏繁花之起以彼皇后為始
これを一般的に云えば、「是皆我家之余慶、抑又先閣之威徳」と記す如くに祖先の
遺徳に感謝してその加護について祈願と信仰、そしてその余徳を受けて其の後を追い
その力を借りて混迷を打破しようとする藤原一族の末裔として、またその一員として
兼実の立場があったと考えるべきでしょう。
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