月輪殿下傅

U.月輪殿下傅
5.氏長者
  摂関家が祖先から引き継いだ膨大な遺産は、大観すれば公私の両面を持っています。
  それは、活動の国家的政治的方面での摂政関白の活動に集約できるもの。それを裏
 付ける私的若しくは社会的なものが氏長者としての活動と云えます。
  もともとこの両面を画然として表裏二面に分離することは難しい事ですが、大略的
 に見てそう理解して良いと思います。
  所謂、兼実が生涯に渡って目指したものは則ちこの摂関・氏長者の両面です。
  この二面では表面上では摂関が中心となりますが、その活動は常に氏長者としての
 地位・権能・責任に裏付されています。従って摂関家を語るには氏長者を理解しなけれ
 ば為らないので、ここでは悠遠の由来・沿革等々の総てを語る事は無理ですが、玉葉に
 現われている問題の一端をあげたいと思います。
  氏長者は、基本的には氏内のものであって国家的・国政的立場に対して私的なものだ
 と云うことは云うまでもないことです。
  しかし、それが単に氏の代表者としての顔だけではなく氏の代表する国政者として
 出てくる場合には私的を越えているでしょう。朝廷が出来て以来、日本史の政治上の
 勢力と氏族が複雑な関係を持ち、例えば天武天皇の八色姓の問題にも端的に示されて
 います。
  摂関と氏長者との関係は、玉葉の時代の保元の乱前後から拗れ始め複雑化していき
 ました。それは乱の六年前に藤原忠実が摂政忠通から氏長者を奪い忠通の弟頼長に与
 えた異常事態が発生した為です。
    摂政者天子所授、我不得奪之、氏長者我所譲、無有勅宣、然則取長者授□(頼長)何有
    所怖憚矣(台記より)
  そしてこの乱後至っては、氏長者が天皇の指名制で忠通に与えられるという前代未
 聞の新例が開かれました。
  文治二年三月十三日兼実が執政の座に就いたとき上記の例を受けて
     凡古来於長者不及宣下所譲也、而保元乱逆此事出来、以彼為例非譲之時毎度被宣下也、
   其中於保元者為最吉以後例皆不吉
  云々と云っています。
  次に長者の地位の象徴としてその地位の授受に伴い天皇家の所謂三種の神器的な物
 が藤原氏長者にもありました。それは、朱器・大盤と長者印があります。
  そして長者としての代々継承する所領は一所所領・一所家領・一所荘園・一所座などと
 呼ばれ、一般的には殿下渡荘と呼ばれています。
  この殿下渡荘にも成立には複雑な沿革が有りましたが、兼実の頃にはやや形が整い
 鎌倉時代末期の近衛家文書を見る限りでの全貌は氏院(勧学院)領三十四ヶ所、法成寺
 及び末寺領四十五ヶ所、東北院領三十四ヶ所、平等院及び末寺領三十ヶ所の他、鹿田
 方上などの六ヶ所、合計百四十九ヶ所に及ぶものでした。
  この中にある氏院つまり勧学院は藤原氏の人物養成の為の施設として藤原氏繁栄の
 根幹を支えていた重要な機関でもありまた、冬嗣以降の永い伝統に立って藤原氏団結
 の中核でもありました。この大切な勧学院が安元三年四月廿八日の都の大火によって
 創建以来三百四十余年にしてその姿を失った事は藤原氏一門総てにとって、殊に摂関
 家にとっては悲嘆の極みだったようです。そのことは安元三年五月一日条の兼実の言
 にも現われています。
  勧学院の監督・経営の権、維持の責任は長者の権限になっていて大きな負担ともな
 っていました。
  この頃の勧学院の別当は治承四年の興福寺壊滅の為の復興事業の長、つまり造興福
 寺長官を兼ねる事となっていました。のみならず学院は氏寺・氏神の管掌についても大
 きな権限を有しており、長者の寺社司任免にも大きく関わっている事が解ります。
  長者のこれらの権限と責任は氏寺の行事、修理維持などの努力にも及び、玉葉にも
 その関係の事は枚挙出来ないほど多数見ることが出来、例えば
   今日摂政(近衛基通)依宇治一切経会被入宇治出車三両云々、是母堂女房歟
  と有るのも長者の資格が背景となっていて修理維持に就いても
   法成寺修造事、泰覚(執行)聖顕(修理別当)相分可奉行旨仰下之
  と当時の長者たる兼実が命を下しています。

  それでは次に藤原氏の不比等以来、そして特に関白基経以降殆どの歴代摂関がそ
 れぞれ寺院を建立していて、長者の権限とこれらの寺院との関係にふれたいと思い
 ます。まずは主要なものを列挙すれば
    寺院名          本願     没年
 (1) 山科寺(山階寺・興福寺)  不比等     720
 (2) 極楽寺         基 経    891
 (3) 法性寺         忠 平    949
 (4)  厳三昧院       師 輔    960
 (5) 法興寺         兼 家    990
 (6) 法住寺         為 光    992
 (7) 積善寺         道 隆    995
 (8) 法成寺         道 長   1027
 (9) 平等院         頼 通   1074
 (10) 最勝金剛院         忠 通   1164
  となります。これら氏寺が長者にとって最も大切な寺院で有ることは云うまでも
 なく、従って長者に就くと共に氏寺・氏神参賀を行います。これは側近だけでは無く
 親しい殿上人をも従える一代の盛儀で、兼実も文治三年正月十三日条に
   此日余長者之後氏寺参賀也、須去年行此礼也、而依僧正所労延及今日也
  と説明しています。
  長者の地位に就いた時には氏神にも拝謝し、氏の人が出家する際にも氏神を先ず
 拝さなければなりませんでした。この出家の際の拝すると云う行動は、将来の世俗
 との交わりを絶ち、新しい世界・境遇へ入る際のこれまで氏人として施された神恩に
 感謝して最後の暇を告げると云うものです。
  また勧学院学生の摂政亭参賀も付け加えておきます。それは、新摂政就任時に、
 勧学院学生は摂政第に赴きこれを祝う事が決められていて、文治二年六月廿日条
 に兼実の場合が載っています。
  最後に氏長者の権能として氏爵の推挙があります。
  橘氏・王氏・源氏などの中から一人ずつ選んで五位叙爵に推挙すると云う毎年正月
 の政務ですが、これは藤氏長者としての公的かつ対外的な面と云うべきでしょう。

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