月輪殿下傅
U.月輪殿下傅
6.住居・邸第
兼実兄弟、つまりは近衛家・松殿家・九条家の名というのはいずれも本邸の名に基
づいています。
父忠通は洛中洛外に多く邸を所持していました。この多くの邸の中で兼実は九条
第を忠通から皇嘉門院を経て譲り受けています。
また、九条の地にある法性寺と最勝金剛院も永く兼実の子孫によって管する処と
して父と同じく兼実も法性寺に葬られました。其の為に父忠通が法性寺関白、兼実
が後法性寺関白と呼ばれた所以です。
これからは兼実が結婚してよりの生活を過ごした邸宅について説明していきたい
と思います。
@六角亭−四条坊門東洞院亭
永暦二年正月廿九日に藤原兼子し結婚した際に、兼実は六角亭に婿住しました。
この六角亭は舅藤原季行の邸宅若しくは季行がこの娘夫婦の為に用意した邸宅で、
これよりは和歌や琴などに関しても舅によって学んでしました。
ちなみに季行宅は勘解由小路北富小路東亭です。しかしながら、「十訓抄」によ
れば舅婿同宿のようにも思われ、兼実十三歳、兼子十歳の幼夫婦なので舅季行が扶
育していたものと考えられます。
その後応保二年に舅季行は没しましたが兼実は六角亭に住み続け諸記録によって
調べると仁安二年まで七年間本宅として使用し、その後数年間は九条新宅を仮居と
して本所を六角亭として住み、承安二年に他領となっていますから約十年間に渡っ
てここに住んでいたようです。
A九条第
皇嘉門院聖子の九条御所を中心とした第宅で、北殿と南殿に別れていて北殿は九
条殿、若しくは九条院とも称され九条堂が付属してこれらが全九条第中の主第を為
していました。皇嘉門院聖子と宜秋門院任子がこれに居して、南殿には皇嘉門院弟
兼実、その子良経、良平などが相次いで侍居しています。後には、この族出の東一
条院腹の九条廃帝仲恭天皇なども九条殿に居していた事もあります。
そして最後には南北を兼実の曾孫教実の子忠実系統の所領となり所謂摂関九条家
の淵源となりました。
この第宅の家族構成を見ると、血縁的部分と主従的部分の両側面が有ります。
その概略では兼実の姉であり養母である皇嘉門院聖子、兼実夫婦と子女、兼実の
妻の母、これらが血縁的部分ですが、皇嘉門院と兼実との関係は血縁のみならず主
従関係でもあったことは云うまでもありません。ですから兼実の住居は「直廬」の
名で呼ばれています。
そして主従的部分では藤原(六条)頼輔南家でこれは南直廬と呼ばれていました。
B冷泉万里小路家
位置「冷泉北、万里小路西、隆衡家」とあります。この邸宅は兼実の頃には隆衡
の父隆房の領でしたが、兼実が摂政詔を承けた際に内裏近くと云うことで借り受け
る事となったようです。
C大炊御門亭
位置「大炊御門北富小路西」で、元は藤原経家の息子、左大臣経宗の家であった
ものを後白河法皇が中御門洞院故成親卿家と替えたものだと云われています。
この邸宅を兼実は後白河法皇より賜わり、建久七年までいたことが「玉葉」
「明月記」から判明します。
この邸宅を賜った理由は文治四年二月に長男良通が没した為に、兼実が冷泉邸へ
帰ることが出来ず、九条に移っていたことを法皇が心痛されてこれを与えたと云わ
れています。
兼実の執政期には概ねこの邸宅で過ごしたようです、
D法性寺月輪殿
山城国紀伊郡。「大日本地名辞書」には「泉涌寺々域及び東福寺の東方なる山谷
の名なり。類聚大補任に月輪山荘我禅房とあれば今泉涌寺の地を籠めたるや明らか
なり、今熊野の南なり。月輪山荘は藤原兼実の居なり。兼実世に月輪関白と称す」
とあります。
兼実がこの山荘を造営したのは正治元年の頃らしく妻が没してからはこの山荘で
隠遁生活を送ったもようです。
九条の地とは当時の京においてどのような位置を占めていたかというと・・・
東西北三面を山に囲まれた京は平野に開けた南を当然の事ながら表とします。
そして平安朝期を通じて京は東方へと発展を続けていくに伴い東寺以東の九条の
地はしだいに開けて貴顕の注目を引きやがて居住の地といっていきます。
やがてこの地に藤原忠平がこの地に建てた法性寺は藤原氏の信仰・生活の一部を
提供し、藤原摂関家の仏事が執り行われるにつれて墳墓の土地ともなりました。
この法性寺の管轄も摂関家の権限と責任の元におかれて、九条の地への関心は深
まるばかりだったようです。
九条の地のこれらの発展は貴顕を更に呼び集め九条をもって称せられた九条頼輔
以後、太政大臣藤原信長がここに邸宅を営み、同じく太政大臣藤原伊通がここに住
して九条大相国と称せられたのはほんの一例です。
さらに九条の注目させられた点は交通の要地してしてです。
かくしてこれらの平安朝期において重きを為し注目された九条の地は兼実が居住
をおく事によって九条家の生活に根をおろして云ったのでした。
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